第3章 現代化革命

マグナカルタ

 江戸時代末期、日本は西欧列強の進出を受け、国家体制の変革に迫られました。それは分権制の廃止であり、中央集権制の確立でした。しかし分権制は決して悪い体制ではありません、それは国家を隅々まで開発し、国力を高めることに役立ちます。そして国民に誠実さや自治の精神を函養します。
 しかし、分権制の欠点は国家の力を一つにまとめることができないということです。例えば司法権や徴税権や軍事権などの国家権力が全国の各領国に分割されていて、一つに集中されず、そのため総合力として成立しないのです。それでは国庫や国軍は造れません。そして産業の近代化も迅速に進みません。何よりも国民の意志が統一されにくい。それは分権制の致命的な欠陥です。従って分権制は世界が揺れ動く激動の時代には最早、通用しない体制でした。
 分権制が解体される原因には三つ、あります。一つは外国の進出です。例えばそれは上で述べましたが、江戸時代末期の日本の場合です、そして19世紀、ナポレオン軍に侵略された中世ドイツや中世イタリアの場合です。国家の危機が国家体制の変革を要求したのです。従ってどの中世国も国家の危機に直面しなければ国家体制を変更せず、分権制をもう少し長く続けたであろうと思われます。
 分権制解体のもう一つの原因は王家の自滅の場合です。それはしばしば王家の世襲の失敗や地方支配の脆弱さから引き起こされました。王家の衰退は社会秩序の破綻をもたらし、国内は戦乱状態となり、やがて分権制も中央集権制も成立しない無法の地となります。例えばそれは室町時代末期の日本の状況です。
 そして三つ目は王家が国家財政の破綻を迎える場合です。それは例えば18世紀のフランスです。すでに述べましたがルイ16世のなりふり構わない資金集めは支配者層の分裂を招き、国内を混乱させ、最終的に革命を招き、そして分権制の解体へと連続しました。
 さて分権制が解体される原因にはもう一つの特殊な事例があります。それは中世イングランドの場合です。そもそもイギリスの中世は極めて特異なものであり、日本や西欧諸国の中世とは全く違うものでした。
 すでに述べましたが、11世紀、イングランドはノルマン軍によって征服され、それまでイングランドを支配していた古代国は消滅しました。征服者であるノルマンディー公ウィリアム(1028~1087)がノルマン王朝を開き、初代王として君臨しました。イングランド最初の中世王朝の樹立です。王はイングランド国土を分割し、ノルマンの軍人たちにそれぞれの領地を分与しました。それは領地安堵でした。


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マグナカルタの認証付き写本(1215年)


 しかし注目すべきことですが、ウィリアム王が中世王としてふるまったことはこの領地安堵だけでした。何故なら、彼は国家権力を独占する古代王のようにふるまっていたからです、王は封建領主たちに対し、領主権を認めなかった。それはほとんど専制政治でした。
 先ず、彼は全国の騎士を集め、王に対し忠誠を誓わせました。それは軍事の中央集権化です。しかしそれは明らかに領主権の侵害でした。何故なら中世国の騎士はそれぞれの封建領主に従って、その封建領主に忠誠を誓うのですから。しかし封建領主は王のそんな横暴な振る舞いを前にして沈黙していました。
 次に王が行ったことは司法の中央集権化でした。全国各地で王の権威の下、裁判は開かれ、殺人から盗み、人々の些細な紛争までが裁かれました。国民はそれを便利なものとして積極的に利用しました。しかしこれも中世社会にあっては不自然なものでした。というのは中世社会において司法権もそれぞれの封建領主に帰属しています、封建領主が領民の争いごとをさばくのです。そこに王の出番はありません。にもかかわらず、王は領主権を無視し、国内を巡回し、彼の裁判を繰り返しました。しかし封建領主は王に抗議せず、相変わらず沈黙したままでした。
 さらに王は警察権の中央集権化を進めました。かつての古代王が布いていた警察組織をそのまま活用したのです。つまり王は王の警察官を各地に派遣して封建領主たちの領地で秩序の維持を担当させました。勿論、それも領主権の侵害でした。封建領主は本来、自らの騎士をもって領国内を管理します、ですから領内には二重の支配が生じました。封建領主はこれに抵抗すべきでした、しかし彼らはそれをも受け入れていたのです。
 従ってイングランド王は専制君主であり、その政治は専制政治でした。王は国土と国民を分割しましたが、国家権力をほぼ独占した。イングランドは分権国というにはほど遠く、むしろ中央集権国でした。それではせっかくの領地安堵に意味がありません。
 さてこの奇怪な国家支配は何故、生じたのでしょうか。それにはいくつかの理由がありますが、その一つは領主権の未熟さです。ノルマン軍人が占領地を支配し始めて日はまだ浅い、しかも領地支配に慣れていない新米の領主たちです。そんな彼らにとって彼ら独自の行政や司法の確立は容易なことではありませんでした。さらに領地支配を困難にしたものはイングランド農民の怒りでした。被征服者の反乱は全国各地で起こっていました。封建領主は新しい制度や組織を造ることの前にまず、彼らを制圧しなければいけませんでした。封建領主の支配は未熟というよりもゼロに近かった。
 この封建領主の危うい領地支配こそ国王の専制政治がもたらされた直接の原因といえるでしょう。ウィリアム王が生来の専制君主であったのかどうかはわかりませんが、少なくともイングランドの支配において彼が領主たちの肩代わりをせざるを得なかったということは確かです。
 しかし問題はこれだけではありません。イングランドの中世の奇怪さには本質的な原因があったのです。というのはこの専制はノルマン王朝の初期に限るものではなく、中世イングランドの歴史を通じて最後まで続くものであったからです。封建領主たちが成長し、独自の領主権をしっかり確立した後も王の専制は執拗に続いていたのです。それはイングランドの中世を特殊にした原因でした。
 13世紀のことです、イングランドの封建領主たちは成長し、領民との争いに勝利し、領地の支配者として自立するようになっていました。それは中世国らしい姿です。しかし王は相変わらず、専制君主でした。例えばジョン王(1166~1216)は封建領主たちに戦役と納税を執拗に要求し、封建領主たちの反感を買っていました。というのは当時、イングランドはフランスとの戦争に敗れ、財政が破綻していた。にもかかわらずジョン王は再び、戦争を始めようと画策し、封建領主たちに戦役を要請し、さらに税を納めるように要求しました。
 しかし封建領主たちは長年の戦に従事し、心身ともに疲れ果て、そして経済的にも追い詰められていました。しかもそれまでも目的の定かでは無い課税はかれらを襲っていました。その時、封建領主は最早、沈黙しませんでした。彼らは王のこの命令を拒否し、王との対決を選びました。彼らは一致団結し、武力をもって王と争い、そして王に勝利しました。そして彼らはこの時とばかり、日ごろの不満を王に叩きつけたのです。それがマグナカルタでした。
 マグナカルタの出現は専制君主という異物を長年にわたり抱え続けた異様な中世国ならではの出来事でした。マグナカルタは王権の乱用を批判し、王権を制限する内容です。それは専制主義の拒否であり、専制君主にとってみれば過激な内容です。封建領主たちはイングランドからこの古代支配を取り除き、イングランドを<中世らしい国>に変えようとしたのです。その点、マグナカルタの事件は素朴な中世化革命であったといえます。ジョン王は渋々ですが封建領主たちのこの主張を受け入れました。
 イングランドの封建領主はすでに中世の精神を十分に身につけ、双務契約の思想を認識していました。ですから彼らのマグナカルタは中世の本質を見事に描き出しています。マグナカルタの趣旨は中世において王の王権は最早、絶対的なものではないこと、そして王と封建領主とは双務契約上、対等であること、従って王も<保護あっての忠誠>という中世の原則を理解し、実践しなければいけないということです。
 具体的に言いますと例えば王による課税は本来、封建領主に対し、実施されるべきものではない、しかしそれは王家の支配する王領の農民に対して行われるべきものです。それが分権統治の原則です。それでもどうしても資金が必要というのであればその課税は合理的なものでなければいけない、そして必ず、封建領主たちの同意を得たうえで実施されなければいけないというものです。
 イングランドの封建領主たちは王に譲歩した、しかし同時に厳しい注文を王に突き付けました。それは封建領主たちにとって王の王権を制限する最初の試みでした。彼らは王の彼らへの課税権を認める、しかしその行使においては彼らの同意を必要とするというものです。それは専制主義への見事な抵抗でした、そして人類の歴史における重要な進歩の一つでした。
 これに比べますと18世紀のフランスの封建領主たちは厳しかった、彼らは王への納税を断固、拒否したからです。この違いは中世の深度の違いから生じたものです。
 いずれにせよ支配者が税を勝手に使えない、という決まりは画期的なことでした。それは民主政治の基本です。今日の民主国は皆、この方式を踏襲しています。つまり政治家は国民の税を使用する前に必ず、国民(の代表)の同意を得なければいけない。毎年、行われる予算委員会はそのためにあります。マグナカルタはその他、人々の生存権や財産権の保障や法の順守や都市の自立などの主張を含んでいます。当時の中世世界にあってはかなり民主的な内容です。それは王権の乱用を禁じ、王権の行使に正当性や公正さを付与すること、そして人権を認めさせることでした。
 しかし中世の王権が相対的なものであること、そして王権の公正な行使は中世日本や中世フランスにおいては当たり前のことであり、改めて主張するようなものではありませんでした。何故なら中世日本人や中世フランス人は中世世界をみずから創造していたからです。彼らは双務契約を自力で開発し、それを実践する過程でそれらの思想を常識として自然に身につけていた。
 中世日本や中世フランスでは先ず、封建領主が存在していました。彼らは武力をもって領地を獲得し、領地支配をほぼ完了していました。それから彼らは自分たちの中から中世王を選びます。そして選ばれた中世王の最初の仕事が封建領主の支配する領地を彼らの領地として認めることでした。これが中世国成立の一般的な過程です。それは国家権力の分割と領主権の確立とがもたらされることであり、そして古代の専制主義が否定されることでした。
 一方、イングランド王は相対主義に鈍感でした。何故なら彼は封建領主たちが選んだ王ではなかった、彼はもともと王でした。それ故、領主権に特別の価値を見出さなかった。このことはノルマン人の特殊な過去を知ることによって理解されるかもしれません。
 ノルマン人はイングランドを侵略する前にフランスにも侵入していました。9世紀のことです。彼らはフランスの国土の一部を占領し、ノルマン公国を建て、フランス国民とともに暮らしていました。王はその時、すでに王であった、すなわちノルマン公国は古代国でした。その地は今、ノルマンディー地方と呼ばれています。そして彼らは11世紀、海を渡り、イングランドを襲った。その時も王は王でした。
 自然なことですが、フランスで暮らすノルマン人たちはすでにフランスに成立していた分権体制に接していました。それは新しい時代を告げるものであり、双務契約はフランスの騎士たちの間で履行されていた。(これは筆者の想像ですが)国家支配の新しい息吹を感じ取っていたノルマン王もノルマン軍人もイングランドにおいてフランスのような中世国を建国しようと目指したはずです。実際、ノルマン王は侵略後、すぐに領地安堵を実施し、中世国の体裁を整えた。
 しかしイングランドの支配体制はフランスの分権体制とは大きく異なるものでした。何故ならノルマン王は相対主義や領主権というものに対し、ほとんど無関心であった。彼は初めから王であり、領主たちが選んだ王ではなかった。従って王は従者たちに領主権を与えること、そして王権を分割するという決定的なことを経験していません。さらに侵略という非常事態は彼らの体制を必然的に中央集権化した。その結果、分割は国土と国民の分割にとどまり、国家権力の分割にまで及ばなかった。権力は王が独占したのです。
 それでもノルマンの騎士たちは本気で中世国の建国を目指した。領主権を持つ本来の封建領主となることです。従って中世イングランドは異様な中世国でした。それは専制君主(古代人)と封建領主(中世人)とが同居する、そして両者が対立を繰り返す中世国です。それは絶対王政と呼ばれたルイ14世の支配体制に近いものです。つまり13世紀のイングランドは未熟な中世国であると同時に、中世末期の破綻寸前の中世国でもあった。そしてこの混乱した体制は名誉革命まで400年も続きました。
 さて封建領主たちは専制君主の横暴に苦しみながらも、そんな未熟な中世を本来の中世に変革しようと奮闘努力しました、それは独特の中世化革命です。その時、彼らは専制主義を武力によってではなく、議会を造り、議会を通じて排除しようと試みました。これもイングランドならではの試みでした。皮肉なことですが、王が専制であればあるほど議会は成長したのです。
 議会は中世の平等主義を高く掲げ、王権を制限する政策を造り続けましたが、注目すべきことは議会が王権の制限にとどまらず、それ以上のこと、すなわち王から王権を剥奪することに迄突き進んだことです。王権の廃止です。それが名誉革命でした。
 名誉革命はいわば第1回目の専制主義への打撃と第2回目の打撃とが一体化した特殊な革命であった、すなわちそれは王権の弱体化をもたらす中世化革命と、王権の剥奪をもたらす現代化革命の合体でした。
 その時、中世王は実権を失い、国の象徴と化した。言い換えれば議会はイギリスを中世国に変えたのではなく、いきなり現代国に仕立てあげたのです。そして議会こそがイギリスの支配者となった。(但し、当時、国王は依然として軍事権を掌握していました)
 イギリスの過酷で、矛盾した中世はイギリス人に平等主義や自由主義への強烈な信仰心を育んだ。従ってイギリスの学者が世界で最も早く、近代思想である平等主義と自由主義を提唱したこと、そしてイギリス人が今も平等への強いこだわりを持ち、日常生活において物事のフェアかフェアでないかをわめくことは彼らの経てきた歴史の故といえるでしょう。
 一方、平等主義や自由主義は江戸末期の日本人にほとんど無縁のものであった。というのはイングランドの中世に対し、最もかけ離れた中世が日本の中世であったからです。
 江戸時代の日本は2世紀に渡り、平和であった。徳川は武士たちに対し、武力行使を厳しく禁じていた、そして当時の東アジアは戦争がなく、穏やかであった。ですから徳川の下、分割主義はほぼ正常に機能して、日本の中世は文字通り、完熟した。ですから徳川は国家的な危機に全く直面することなく、それ故、膨大な戦費の調達に苦慮せずに済んだ。
 戦争と膨大な戦費の有る無は王家の財政と国家の支配体制を決定的に左右します。自然なことですが、徳川は封建領主を恐喝する必要もなく、彼らの持つ免税権を剥奪する必要もなかった。徳川と封建領主たちとは互いに尊重し、親密であり、安定的な関係を築き、日本を共同支配していました。
 それでも江戸時代後半、徳川も封建領主も財政上の問題を抱え、農民に重税を課すという悪行にのめり込んでいたことは確かです、しかしその財政難は西欧諸国の戦争由来の財政危機に比べ、はるかに軽微なものであった。そして封建領主の中には農民たちを圧迫した者だけではなく、逆に厚く保護し続けた者もたくさんいたのです。彼らも財政的に苦しんでいた、しかし農民に責任転嫁せず、彼らに重税を課さず、その代わり豪農や豪商、あるいは徳川家に借金を申し込んでいたのです。
 ですから江戸時代における封建領主たちの圧政は中世イギリスや中世フランスにおける圧政と比べればその期間は短く、そして地域も限定的なものであったといえます。実際、江戸時代において農民への圧政が相当ひどいものであったのなら2世紀以上に渡る徳川の平和は成立しなかったことでしょう。
 全体的に見れば江戸時代の日本は平穏であり、秩序は維持されていた、そして人々は中世固有の平等や自由を十分に享受していた。ですから人々は中世王を殺害すること、あるいは彼を国外に追放することなど夢想すらしなかった。いわば彼らは熱湯にではなく、ぬるま湯に浸かっていたのです。その結果、多くの人々はイギリス国民が激しく求めた(現代の)平等主義や自由主義にほとんど無縁であった。
 以上の事から現代化革命には二つの型があることが判明します。それはイギリスとフランスの革命と日本やドイツやイタリアの革命との二つです、前者は国内を原因とする革命であり、後者は他国を原因とする革命です。イギリスやフランスの革命は中世王が過酷な専制政治を断行したことからくる人々の苦しみや怒りを原因としています。一方、日本やドイツやイタリアの革命は他国の進出や侵略からくる不安や怒りを原因とした。
 後者の革命についてですが、ドイツやイタリアはナポレオン軍によって侵略された、そして日本は西欧列強の進出に直面した。その時、彼らは自国の存亡に直面する、そして侵入者と戦うために国家の力を一つに結集した。それが彼らの現代化革命であり、分権制を廃止し、中央集権制を確立することでした。すなわち彼らの現代化は専制主義との戦いというよりも国家として生き延びるための国家戦略でした。
 本来、日本やドイツの国民は中世王を殺害しようと企てていなかった、しかし現代化を遂行するためには分権制の核心である中世王を消去することは不可避なことであった。中世王は結果として障害物と化したのです。
 そしてその後、日本や西欧諸国は侵略者の確立した現代武器や現代政治や現代産業を国内に導入した。それもまた彼らが生き延びるために必要不可欠のものであったからです。中世の平等主義や自由主義は政治や行政の現代化の過程で徐々に現代の平等主義や自由主義へと進化していった。
 分権国は21世紀の世界に最早、存在しません。すべての国は中央集権国であり、基本の国家権力がすべて中央政府に集中しています、そして独自の国旗を所有しています。 中央集権国には二種類あります。一つは専制主義の中央集権国です、そしてもう一つは民主主義の中央集権国です。言うまでもないことですが、前者が歴史の進化しない国、そして後者が歴史の進化した国です。


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