マグナカルタ
江戸時代末期、日本は西欧列強の進出を受け、国家体制の変革に迫られました。それは分権制の廃止であり、中央集権制の確立でした。しかし分権制は決して悪い体制ではありません、それは国家を隅々まで開発し、国力を高めることに役立ちます。そして国民に誠実さや自治の精神を函養します。
しかし、分権制の欠点は国家の力を一つにまとめることができないということです。例えば司法権や徴税権や軍事権などの国家権力が全国の各領国に分割されていて、一つに集中されず、そのため総合力として成立しないのです。それでは国庫や国軍は造れません。そして産業の近代化も迅速に進みません。何よりも国民の意志が統一されにくい。それは分権制の致命的な欠陥です。従って分権制は世界が揺れ動く激動の時代には最早、通用しない体制でした。
分権制が解体される原因には三つ、あります。一つは外国の進出です。例えばそれは上で述べましたが、江戸時代末期の日本の場合です、そして19世紀、ナポレオン軍に侵略された中世ドイツや中世イタリアの場合です。国家の危機が国家体制の変革を要求したのです。従ってどの中世国も国家の危機に直面しなければ国家体制を変更せず、分権制をもう少し長く続けたであろうと思われます。
分権制解体のもう一つの原因は王家の自滅の場合です。それはしばしば王家の世襲の失敗や地方支配の脆弱さから引き起こされました。王家の衰退は社会秩序の破綻をもたらし、国内は戦乱状態となり、やがて分権制も中央集権制も成立しない無法の地となります。例えばそれは室町時代末期の日本の状況です。
そして三つ目は王家が国家財政の破綻を迎える場合です。それは例えば18世紀のフランスです。すでに述べましたがルイ16世のなりふり構わない資金集めは支配者層の分裂を招き、国内を混乱させ、最終的に革命を招き、そして分権制の解体へと連続しました。
さて分権制が解体される原因にはもう一つの特殊な事例があります。それは中世イングランドの場合です。そもそもイギリスの中世は極めて特異なものであり、日本や西欧諸国の中世とは全く違うものでした。
すでに述べましたが、11世紀、イングランドはノルマン軍によって征服され、それまでイングランドを支配していた古代国は消滅しました。征服者であるノルマンディー公ウィリアム(1028~1087)がノルマン王朝を開き、初代王として君臨しました。イングランド最初の中世王朝の樹立です。王はイングランド国土を分割し、ノルマンの軍人たちにそれぞれの領地を分与しました。それは領地安堵でした。
マグナカルタの認証付き写本(1215年)
しかし注目すべきことですが、ウィリアム王が中世王としてふるまったことはこの領地安堵だけでした。何故なら、彼は国家権力を独占する古代王のようにふるまっていたからです、王は封建領主たちに対し、領主権を認めなかった。それはほとんど専制政治でした。
先ず、彼は全国の騎士を集め、王に対し忠誠を誓わせました。それは軍事の中央集権化です。しかしそれは明らかに領主権の侵害でした。何故なら中世国の騎士はそれぞれの封建領主に従って、その封建領主に忠誠を誓うのですから。しかし封建領主は王のそんな横暴な振る舞いを前にして沈黙していました。
次に王が行ったことは司法の中央集権化でした。全国各地で王の権威の下、裁判は開かれ、殺人から盗み、人々の些細な紛争までが裁かれました。国民はそれを便利なものとして積極的に利用しました。しかしこれも中世社会にあっては不自然なものでした。というのは中世社会において司法権もそれぞれの封建領主に帰属しています、封建領主が領民の争いごとをさばくのです。そこに王の出番はありません。にもかかわらず、王は領主権を無視し、国内を巡回し、彼の裁判を繰り返しました。しかし封建領主は王に抗議せず、相変わらず沈黙したままでした。
さらに王は警察権の中央集権化を進めました。かつての古代王が布いていた警察組織をそのまま活用したのです。つまり王は王の警察官を各地に派遣して封建領主たちの領地で秩序の維持を担当させました。勿論、それも領主権の侵害でした。封建領主は本来、自らの騎士をもって領国内を管理します、ですから領内には二重の支配が生じました。封建領主はこれに抵抗すべきでした、しかし彼らはそれをも受け入れていたのです。
従ってイングランド王は専制君主であり、その政治は専制政治でした。王は国土と国民を分割しましたが、国家権力をほぼ独占した。イングランドは分権国というにはほど遠く、むしろ中央集権国でした。それではせっかくの領地安堵に意味がありません。
さてこの奇怪な国家支配は何故、生じたのでしょうか。それにはいくつかの理由がありますが、その一つは領主権の未熟さです。ノルマン軍人が占領地を支配し始めて日はまだ浅い、しかも領地支配に慣れていない新米の領主たちです。そんな彼らにとって彼ら独自の行政や司法の確立は容易なことではありませんでした。さらに領地支配を困難にしたものはイングランド農民の怒りでした。被征服者の反乱は全国各地で起こっていました。封建領主は新しい制度や組織を造ることの前にまず、彼らを制圧しなければいけませんでした。封建領主の支配は未熟というよりもゼロに近かった。
この封建領主の危うい領地支配こそ国王の専制政治がもたらされた直接の原因といえるでしょう。ウィリアム王が生来の専制君主であったのかどうかはわかりませんが、少なくともイングランドの支配において彼が領主たちの肩代わりをせざるを得なかったということは確かです。
しかし問題はこれだけではありません。イングランドの中世の奇怪さには本質的な原因があったのです。というのはこの専制はノルマン王朝の初期に限るものではなく、中世イングランドの歴史を通じて最後まで続くものであったからです。封建領主たちが成長し、独自の領主権をしっかり確立した後も王の専制は執拗に続いていたのです。それはイングランドの中世を特殊にした原因でした。
13世紀のことです、イングランドの封建領主たちは成長し、領民との争いに勝利し、領地の支配者として自立するようになっていました。それは中世国らしい姿です。しかし王は相変わらず、専制君主でした。例えばジョン王(1166~1216)は封建領主たちに戦役と納税を執拗に要求し、封建領主たちの反感を買っていました。というのは当時、イングランドはフランスとの戦争に敗れ、財政が破綻していた。にもかかわらずジョン王は再び、戦争を始めようと画策し、封建領主たちに戦役を要請し、さらに税を納めるように要求しました。
しかし封建領主たちは長年の戦に従事し、心身ともに疲れ果て、そして経済的にも追い詰められていました。しかもそれまでも目的の定かでは無い課税はかれらを襲っていました。その時、封建領主は最早、沈黙しませんでした。彼らは王のこの命令を拒否し、王との対決を選びました。彼らは一致団結し、武力をもって王と争い、そして王に勝利しました。そして彼らはこの時とばかり、日ごろの不満を王に叩きつけたのです。それがマグナカルタでした。
マグナカルタの出現は専制君主という異物を長年にわたり抱え続けた異様な中世国ならではの出来事でした。マグナカルタは王権の乱用を批判し、王権を制限する内容です。それは専制主義の拒否であり、専制君主にとってみれば過激な内容です。封建領主たちはイングランドからこの古代支配を取り除き、イングランドを<中世らしい国>に変えようとしたのです。その点、マグナカルタの事件は素朴な中世化革命であったといえます。ジョン王は渋々ですが封建領主たちのこの主張を受け入れました。
イングランドの封建領主はすでに中世の精神を十分に身につけ、双務契約の思想を認識していました。ですから彼らのマグナカルタは中世の本質を見事に描き出しています。マグナカルタの趣旨は中世において王の王権は最早、絶対的なものではないこと、そして王と封建領主とは双務契約上、対等であること、従って王も<保護あっての忠誠>という中世の原則を理解し、実践しなければいけないということです。
具体的に言いますと例えば王による課税は本来、封建領主に対し、実施されるべきものではない、しかしそれは王家の支配する王領の農民に対して行われるべきものです。それが分権統治の原則です。それでもどうしても資金が必要というのであればその課税は合理的なものでなければいけない、そして必ず、封建領主たちの同意を得たうえで実施されなければいけないというものです。
イングランドの封建領主たちは王に譲歩した、しかし同時に厳しい注文を王に突き付けました。それは封建領主たちにとって王の王権を制限する最初の試みでした。彼らは王の彼らへの課税権を認める、しかしその行使においては彼らの同意を必要とするというものです。それは専制主義への見事な抵抗でした、そして人類の歴史における重要な進歩の一つでした。
これに比べますと18世紀のフランスの封建領主たちは厳しかった、彼らは王への納税を断固、拒否したからです。この違いは中世の深度の違いから生じたものです。
いずれにせよ支配者が税を勝手に使えない、という決まりは画期的なことでした。それは民主政治の基本です。今日の民主国は皆、この方式を踏襲しています。つまり政治家は国民の税を使用する前に必ず、国民(の代表)の同意を得なければいけない。毎年、行われる予算委員会はそのためにあります。マグナカルタはその他、人々の生存権や財産権の保障や法の順守や都市の自立などの主張を含んでいます。当時の中世世界にあってはかなり民主的な内容です。それは王権の乱用を禁じ、王権の行使に正当性や公正さを付与すること、そして人権を認めさせることでした。
しかし中世の王権が相対的なものであること、そして王権の公正な行使は中世日本や中世フランスにおいては当たり前のことであり、改めて主張するようなものではありませんでした。何故なら中世日本人や中世フランス人は中世世界をみずから創造していたからです。彼らは双務契約を自力で開発し、それを実践する過程でそれらの思想を常識として自然に身につけていた。
中世日本や中世フランスでは先ず、封建領主が存在していました。彼らは武力をもって領地を獲得し、領地支配をほぼ完了していました。それから彼らは自分たちの中から中世王を選びます。そして選ばれた中世王の最初の仕事が封建領主の支配する領地を彼らの領地として認めることでした。これが中世国成立の一般的な過程です。それは国家権力の分割と領主権の確立とがもたらされることであり、そして古代の専制主義が否定されることでした。
一方、イングランド王は相対主義に鈍感でした。何故なら彼は封建領主たちが選んだ王ではなかった、彼はもともと王でした。それ故、領主権に特別の価値を見出さなかった。このことはノルマン人の特殊な過去を知ることによって理解されるかもしれません。
ノルマン人はイングランドを侵略する前にフランスにも侵入していました。9世紀のことです。彼らはフランスの国土の一部を占領し、ノルマン公国を建て、フランス国民とともに暮らしていました。王はその時、すでに王であった、すなわちノルマン公国は古代国でした。その地は今、ノルマンディー地方と呼ばれています。そして彼らは11世紀、海を渡り、イングランドを襲った。その時も王は王でした。
自然なことですが、フランスで暮らすノルマン人たちはすでにフランスに成立していた分権体制に接していました。それは新しい時代を告げるものであり、双務契約はフランスの騎士たちの間で履行されていた。(これは筆者の想像ですが)国家支配の新しい息吹を感じ取っていたノルマン王もノルマン軍人もイングランドにおいてフランスのような中世国を建国しようと目指したはずです。実際、ノルマン王は侵略後、すぐに領地安堵を実施し、中世国の体裁を整えた。
しかしイングランドの支配体制はフランスの分権体制とは大きく異なるものでした。何故ならノルマン王は相対主義や領主権というものに対し、ほとんど無関心であった。彼は初めから王であり、領主たちが選んだ王ではなかった。従って王は従者たちに領主権を与えること、そして王権を分割するという決定的なことを経験していません。さらに侵略という非常事態は彼らの体制を必然的に中央集権化した。その結果、分割は国土と国民の分割にとどまり、国家権力の分割にまで及ばなかった。権力は王が独占したのです。
それでもノルマンの騎士たちは本気で中世国の建国を目指した。領主権を持つ本来の封建領主となることです。従って中世イングランドは異様な中世国でした。それは専制君主(古代人)と封建領主(中世人)とが同居する、そして両者が対立を繰り返す中世国です。それは絶対王政と呼ばれたルイ14世の支配体制に近いものです。つまり13世紀のイングランドは未熟な中世国であると同時に、中世末期の破綻寸前の中世国でもあった。そしてこの混乱した体制は名誉革命まで400年も続きました。
さて封建領主たちは専制君主の横暴に苦しみながらも、そんな未熟な中世を本来の中世に変革しようと奮闘努力しました、それは独特の中世化革命です。その時、彼らは専制主義を武力によってではなく、議会を造り、議会を通じて排除しようと試みました。これもイングランドならではの試みでした。皮肉なことですが、王が専制であればあるほど議会は成長したのです。
議会は中世の平等主義を高く掲げ、王権を制限する政策を造り続けましたが、注目すべきことは議会が王権の制限にとどまらず、それ以上のこと、すなわち王から王権を剥奪することに迄突き進んだことです。王権の廃止です。それが名誉革命でした。
名誉革命はいわば第1回目の専制主義への打撃と第2回目の打撃とが一体化した特殊な革命であった、すなわちそれは王権の弱体化をもたらす中世化革命と、王権の剥奪をもたらす現代化革命の合体でした。
その時、中世王は実権を失い、国の象徴と化した。言い換えれば議会はイギリスを中世国に変えたのではなく、いきなり現代国に仕立てあげたのです。そして議会こそがイギリスの支配者となった。(但し、当時、国王は依然として軍事権を掌握していました)
イギリスの過酷で、矛盾した中世はイギリス人に平等主義や自由主義への強烈な信仰心を育んだ。従ってイギリスの学者が世界で最も早く、近代思想である平等主義と自由主義を提唱したこと、そしてイギリス人が今も平等への強いこだわりを持ち、日常生活において物事のフェアかフェアでないかをわめくことは彼らの経てきた歴史の故といえるでしょう。
一方、平等主義や自由主義は江戸末期の日本人にほとんど無縁のものであった。というのはイングランドの中世に対し、最もかけ離れた中世が日本の中世であったからです。
江戸時代の日本は2世紀に渡り、平和であった。徳川は武士たちに対し、武力行使を厳しく禁じていた、そして当時の東アジアは戦争がなく、穏やかであった。ですから徳川の下、分割主義はほぼ正常に機能して、日本の中世は文字通り、完熟した。ですから徳川は国家的な危機に全く直面することなく、それ故、膨大な戦費の調達に苦慮せずに済んだ。
戦争と膨大な戦費の有る無は王家の財政と国家の支配体制を決定的に左右します。自然なことですが、徳川は封建領主を恐喝する必要もなく、彼らの持つ免税権を剥奪する必要もなかった。徳川と封建領主たちとは互いに尊重し、親密であり、安定的な関係を築き、日本を共同支配していました。
それでも江戸時代後半、徳川も封建領主も財政上の問題を抱え、農民に重税を課すという悪行にのめり込んでいたことは確かです、しかしその財政難は西欧諸国の戦争由来の財政危機に比べ、はるかに軽微なものであった。そして封建領主の中には農民たちを圧迫した者だけではなく、逆に厚く保護し続けた者もたくさんいたのです。彼らも財政的に苦しんでいた、しかし農民に責任転嫁せず、彼らに重税を課さず、その代わり豪農や豪商、あるいは徳川家に借金を申し込んでいたのです。
ですから江戸時代における封建領主たちの圧政は中世イギリスや中世フランスにおける圧政と比べればその期間は短く、そして地域も限定的なものであったといえます。実際、江戸時代において農民への圧政が相当ひどいものであったのなら2世紀以上に渡る徳川の平和は成立しなかったことでしょう。
全体的に見れば江戸時代の日本は平穏であり、秩序は維持されていた、そして人々は中世固有の平等や自由を十分に享受していた。ですから人々は中世王を殺害すること、あるいは彼を国外に追放することなど夢想すらしなかった。いわば彼らは熱湯にではなく、ぬるま湯に浸かっていたのです。その結果、多くの人々はイギリス国民が激しく求めた(現代の)平等主義や自由主義にほとんど無縁であった。
以上の事から現代化革命には二つの型があることが判明します。それはイギリスとフランスの革命と日本やドイツやイタリアの革命との二つです、前者は国内を原因とする革命であり、後者は他国を原因とする革命です。イギリスやフランスの革命は中世王が過酷な専制政治を断行したことからくる人々の苦しみや怒りを原因としています。一方、日本やドイツやイタリアの革命は他国の進出や侵略からくる不安や怒りを原因とした。
後者の革命についてですが、ドイツやイタリアはナポレオン軍によって侵略された、そして日本は西欧列強の進出に直面した。その時、彼らは自国の存亡に直面する、そして侵入者と戦うために国家の力を一つに結集した。それが彼らの現代化革命であり、分権制を廃止し、中央集権制を確立することでした。すなわち彼らの現代化は専制主義との戦いというよりも国家として生き延びるための国家戦略でした。
本来、日本やドイツの国民は中世王を殺害しようと企てていなかった、しかし現代化を遂行するためには分権制の核心である中世王を消去することは不可避なことであった。中世王は結果として障害物と化したのです。
そしてその後、日本や西欧諸国は侵略者の確立した現代武器や現代政治や現代産業を国内に導入した。それもまた彼らが生き延びるために必要不可欠のものであったからです。中世の平等主義や自由主義は政治や行政の現代化の過程で徐々に現代の平等主義や自由主義へと進化していった。
分権国は21世紀の世界に最早、存在しません。すべての国は中央集権国であり、基本の国家権力がすべて中央政府に集中しています、そして独自の国旗を所有しています。
中央集権国には二種類あります。一つは専制主義の中央集権国です、そしてもう一つは民主主義の中央集権国です。言うまでもないことですが、前者が歴史の進化しない国、そして後者が歴史の進化した国です。
現代化革命の百年間
明治維新は日本の現代化革命でした。江戸時代末期、西欧列強の日本進出を原因として革命は勃発した。下級武士たちが革命の狼煙を上げた、彼らは旧勢力である徳川幕府を武力をもって倒し、次に古代王の子孫を新生日本の支配者として据えました。王政復古です。
さて多くの日本人にとって古代王の登場は意外なことでした、というのは江戸時代、日本人のほとんどは古代王を見たことがなかった、そしてその存在をほとんど忘れていた。何故なら古代王は3世紀に渡り、武家の保護の下、京都の御所において象徴王としてひっそりと暮らしていた、そして人々にとっての支配者は徳川家であり、封建領主でした。
それにもかかわらず、革命家たちは日本の新しい王として古代王を選んだ。何故なら古代王は象徴とは言え、数世紀にわたり、日本の国王であり続けたのですから。しかも幕末期、王の従者である貴族たちは積極的に下級武士たちと組み、徳川幕府の打倒に尽くした。それは象徴王の存在感を大いに高めた。
革命家たちは江戸を東京と改め、日本の首都に定めた。そして彼らは古代王を京都から東京に移し、国内および、海外に向けて彼を新生日本の国王として披露した。その時、日本は新しい権威と統一した意志を確保したのです。
しかし古代王は依然として象徴王であった。その時、古代王は無力でした、何故なら彼は日本を支配するための強大な軍事力も豊かな財力もそして多数の従者も持ち合わせていなかったからです。彼の従者は1000年に渡り、王朝を支えたごく少数の貴族だけです。実権は革命家たちが握っていた。もし王が本気で日本の支配者となろうとしたのなら革命家たちは即座に彼を王座から引きずり下ろし、王家の誰かを選び、改めて王位に据え直したことでしょう。
ですから日本の古代王は桃山時代以来、21世紀の今日まで国家の象徴であり続けた。これが大政奉還の真実です。それは古代王が再び実権を握り、専制政治を始めたというということではありません。
次に革命家たちが行ったことは国民国家の創出です。それは国土、国民、国家権力を行政上、一つにまとめることでした。それが廃藩置県です。すべての領地を一つにまとめて、国土に転じること、すべての領民をまとめて、国民に転じること、そしてすべての領主権をまとめて、国家権力に転じ、東京に集めることでした。
藩は廃止され、県や府と化しました。そして県や府を治める者は最早、封建領主ではありません。それは新政府から派遣された役人です。国家の運営はすべて新政府が行い、地方役人はその手足となった。それは中世固有の領地領民制の消滅であり、分権制から中央集権制への大転換でした。その時、封建領主たちはすべてを失いました。
廃藩置県は当然、取る者と取られる者との間に厳しい対立、そして流血の内戦を引きおこした。徳川家に忠誠を誓い、既得権益を死守しようとする旧勢力は特に東国に多かった、革命家たちは2年に渡り、彼らと激しく戦い、最終的に彼らを制圧した。
革命家たちは国自治の確立を急いだ。1889年、憲法は制定され、そして選挙は実施され、国会は成立した。選ばれた議員たちは法律を制定し、毎年、国家予算を審議し、可決した、そして税や税率を決めました。それは国民主権が基本的に認められ、民主体制が着実に実行されていたことを示すものです。
税制も一元化され、そして現代化されました。すなわち全国の税はすべて東京の中央政府に集められた。そして税は年貢(米)からお金に変えられた。江戸時代に存在しなかった所得税や酒税は新税として加えられました。その結果、莫大な資金を抱えた国庫が誕生した、革命家たちはその資金を使い、国会や国立銀行を設置し、造幣局や製糸工場や造船所などを創設し、鉄道を敷設した。それは産業の現代化でした。
国旗や国軍も造られた。陸軍や海軍が創立され、国家に仕える軍人が誕生しました。封建領主に仕える武士は消えたのです。そして国家の墓地が設置され、戦争で殉難した戦士が悼まれた。このように日本の中央集権化と現代化は国内の隅々まで行き渡った。
これらの政策を実施するための人材は日本に多く、存在した。何故なら江戸時代、全国の領国では封建領主と武士が協力し、領国の統治を実践していた、すなわち彼らは立法や行政や司法の実務に長けていたからです。そんな武士たちが新政府に集まり、官僚となって新生日本を運営した。貴重な人材は分権国の遺産であり、革命への素晴らしい贈り物でした。
さて明治時代から昭和時代にかけて約1世紀、職業政治家と国民によって日本の現代化革命は遂行されていきました。一層の民主化と法治主義の確立に向けて議会運営の改善、選挙法の改正、男女の同権化、文民統制などが順次、成立していきました。そして21世紀の今もなお、現代化は検証され、その不備は逐次、補正されています。
しかし日本にせよ西欧諸国にせよ中世から現代への移行は容易なものではありませんでした。というのは現代化革命が一種、異様な革命であった、革命の精神(平等主義や自由主義)に反し、革命家たちが行ったことはむしろ専制政治に近いものであった。
いくつかの事例を紹介します。一つは明治維新が藩閥政治をもたらしたことです。それは民主政治ではありませんでした。旧体制を倒した革命家たちは実権を握り続け、独裁政治を行った。この体制は国会が開設され、議員の活動が軌道に乗るまでの約30年間、続きました。
藩閥政治に加え、革命が矛盾であったことの一つは<主権在君>の憲法です。それはまるで専制国の憲法のようでした、例えば明治憲法は王が国民に贈ったものでした、しかし国民自らが合意したものではなかった。そしてこの憲法には古代王が日本の支配者であり、軍事権を持ち、総理大臣を任命し、そして古代王の権威のもとに裁判を行うことなどが定められていた。ですから彼はまるで専制君主のようでした。
この文面を眺めれば現代化革命が直ちに民主体制を築いたものでは無いといわざるを得ません、むしろそれは専制君主の宣言です。しかし幸いなことですが、現実は憲法の持つ専制の側面を巧みに避けながら進みました。何故なら国会が開設されて以降、政治は革命家たちばかりではなく国会議員も参加して行なわれていたからです、そして古代王は政策決定に参加せず、彼らの決めたことを追認していただけでした。つまり古代王は依然として象徴王を演じていた、しかし独裁者ではなかった。憲法に書かれている事柄と現実とはかけ離れていたのです。明治憲法は第二次世界大戦後、廃止されました。
藩閥政治にしても明治憲法にしても民主的なものとは言えません。しかし昨日まで封建体制の下に暮らしてきた人々がいきなり民主制に馴染むことができるはずがありません。それをするには人々は少なくとも30年間くらいの過渡期を必要とするでしょう、それに民主制を実現するための制度や組織である憲法や議会も未整備でした。そんなことを考えれば藩閥政治や主権在君の憲法を一方的に悪とはいえない、むしろそれは民主制を樹立するために必要なものであったといえます。物事は一朝一夕には進まない。
明治憲法の制定はもう一つの矛盾を生み出した。それはその時、日本が二つの異なる権威を持ったことです、すなわち古代王と憲法です。日本はこの矛盾に戸惑うよりもこの二つを巧みに利用した。
政治家たちは国民を強く束ねたい時、古代王を権威とした。それは古代王を国家の象徴から現人神へと切り変えることでした。王の神格化です。国民は絶対の権威となった王を尊敬するよりも畏怖するようになり、王へ絶対服従を誓った。王は法の上に立った。例えばそれは日清戦争、日露戦争、そして第二次世界大戦などの戦時中において特に顕著であった。実際、兵士は王のために命を懸けて敵と戦いました。
一方、平時において、特に日露戦争と第二次世界大戦の間の平穏な時代、国民は法を順守し、民主主義を推し進めた。それは選挙法の改正、政党政治の活発化、男女同権の運動、人道主義の運動などです。
いずれにせよ、二つの権威の同時進行は現代日本の初期に生じた特殊な現象であった。王の神格化は第二次世界大戦後に消滅し、王は本来の象徴王に戻りました。その時、日本は憲法を唯一の支配者とする完全な形の法治国となった。
もう一つ革命の矛盾を紹介します。それは明治維新が華族という新しい特権階級を創設したことです。それは不平等な社会を造るものでした。華族制度は世襲制であり、約400家族から成り、80年間、存続しました。彼らはいくつもの特権を与えられ、一般人と明確に区別された。矛盾したことですが、革命は新しい身分制を創ったのです。
華族を構成した400家族は過去2000年間の日本をそれぞれの期間、支配した3種の家族でした。一つは古代の支配者層を形成した貴族の家です、一つは中世の支配者である封建領主の家です、そして三つ目は現代化に尽くした革命家たちの家です。特に貴族の家は1000年以上にわたり、絶えることなく、続いてきた。この三種の家族の集まりは歴史的な一大奇観です。恐らく、それは日本以外には存在しないものでしょう。そしてそれはいみじくも日本の歴史が古代、中世、現代の三つの部分から成り立つことを示しています。
華族の特権の一つは選挙を経ずに国会議員になれることでした、それは華族であれば生まれた時から、支配者層の一員であるということです。一方、一般の国民が議員になるには選挙で当選しなければいけません。それは一国において古代と現代とが混合している状態です。
さて革命家たちを弁護することになりますが、華族の創設は革命家たちが廃藩置県を速やかに遂行するためやむなく、採用した政策でした、つまりそれはすべてを失う封建領主たちを宥めすかすためであったのです。ですから華族制は藩閥政治や明治憲法と同じく、中世が現代へと移行する過渡期においてほとんど必要不可欠なものであったといえます。華族制は第二次世界大戦後、消滅した。
革命家たちの藩閥政治は大正時代(1912~926)になって消滅します。男女平等の運動や普通選挙法の成立などが進み、日本の民主化はそれなりに進展したからです。しかしその後、まもなく軍事政権が日本を支配するようになります。それは古代国の再来に近い、軍人による専制支配でした。日本の民主政治はこうした紆余曲折を経て成長して、第二次世界大戦後、ようやく本格的に確立します。
そうした問題の多い現代化革命は中世国のどの国にも認められます。彼らは半世紀から一世紀をかけ、紆余曲折を経ながら、民主政治を定着させていったのです。例えばフランスも矛盾に満ちた革命を行っていた。フランス革命は直接、民主体制を産み落としたのではなかった、というのはフランス革命の後に現れたものは民主制とは正反対の皇帝ナポレオンによる軍事独裁体制でした。そしてナポレオンの没落後に現れたものも民主体制とは言い難い、それは王政復古であり、ブルボン王家の復活です。ブルボン王家の頭首、ルイ18世がフランスの新しい支配者として君臨したのです。それは革命の精神とは全く異なります。
皇帝ナポレオンは矛盾した存在です。彼は現代化の旗手としてフランス国民に、そして西欧諸国の人々に向かって自由や平等の素晴らしさを高らかに唱え上げた。そしてフランスの行政や司法や産業を積極的に現代化し、フランスを現代国に押し上げました。
しかし彼が独裁者であったこともまた事実です。彼はイタリアやドイツなどの西欧諸国を侵略したばかりではなく、その奪った土地を彼の忠実なる軍人たちに恩賞として安堵しました。それはまるで中世王が行った領地安堵の振る舞いです。さらにナポレオンはそれらの軍人に特権を与え、フランスに新しい特権階級を創設しました。それはまるで古代の支配体制です。ナポレオンはいわば古代、中世、現代の三つの異なる支配者を演じていた、それは実に奇怪な国家統治でした。
しかしこうした歴史のごっちゃまぜは日本やフランスだけではなく、新生イタリアや新生ドイツなどにおいても程度の違いはあっても存在していました。それは中世から現代へと移行する過渡期の特徴的な混乱であり、国家の大回転が求めたほとんど不可避な行程であったといえます。そこでは専制主義と分割主義と民主主義とが絡まり合い、そして人治と法治とが相克していたのです。そしてその混乱を解きほぐし、整理し、民主制を確立したものが実際の現代化革命でした。従って明治維新やフランス革命は現代化革命の輝かしい突破口でありましたが、同時に不合理で、矛盾した一面を伴ったものでした。
今日、日本は法治国と成っています。しかし日本が理想国であるとは勿論、言えません。日本が法治国といってもそれはあくまでも人間の国です。決して完璧なものとは言えない。しかも法治主義も民主政治も繊細、微妙なものです。大切に扱わないと、そして油断をするとすぐ傷つき、容易に破綻してしまいます。
中世フランスとアメリカ革命
中世フランスは分権国家でした。国土はいくつもの封建領国に分割され、それぞれの領国は封建領主によって支配されていました。各領国には多数の村あるいはいくつかの都市が散在していました。当然、封建領主はそれらの村、あるいは都市を支配していたが、都市の中には特別な都市があり、それは封建領主の支配が及ばないものでした。それは<特権都市>と呼ばれた。
何故、中世フランスにおいて少数とはいえ都市は自立していたのでしょう。その理由は都市が中世王と双務契約を結んでいたからです。双務契約の下、中世王は都市を保護し、都市に自治権を与えました。そして一方、都市はその見返りに中世王に対し商業税や兵士を提供した。ギブアンドテイクです。この関係は江戸時代の封建領主と村との双務関係に似ています。
勿論、中世王はすでに封建領主と双務契約を結んでいました、そしてその後、成長著しい都市とも契約を結んだのです。その結果、都市と封建領主は中世王の下、対等な関係となりました。そのため封建領主は都市が自分の領国に存在するにもかかわらず、都市を支配できません。都市の自由が保障されたのです。
フランスにある中世要塞都市カルカソンヌ(Carcassonne)
市民は都市内部において自由を謳歌しました。それは中世世界において画期的なことでした。そして市民はその自由を失わないように結束に努め、外部からの介入や侵入に対しても頑強に抵抗し、自治を守り抜きました。
都市に独裁者は存在しません。都市の支配者は市民です、そして市民は都市法を作り、それに従って暮らした、そしてフランス社会に自治精神や順法精神を深く根付かせていきました。その点、都市は小型の法治国であったといえます。しかし市民がすべて平等であったというのではありません。都市の運営に参加できるものは限られていました、それは都市の有力者たちでした。それは中世日本の村の場合に似ています。その点、村の運営も都市の運営も古代支配と現代支配の中間にあった、人治と法治の組み合わせであったといえます。
フランス革命は人治から法治への世紀の大転換でした。フランス国民が法治主義を実践し、民主政治を運営できたことは彼らが中世の都市自治を経験し、すでに自治精神や順法精神を十分に育んでいたからです。法にせよ議会にせよそれらは彼らにとって古くから馴染みのあるものでした。ですから都市自治は国自治へと容易に転換したのです。
フランス革命と名誉革命から発するこれらの新しい思想や制度は当時、日本のみならず、西欧諸国やアジア、アフリカの国々にも伝播していきましたが、現代化革命を成し遂げることのできた国は限られていました。それは中世を通過した日本と西欧諸国だけでした。
今日、西欧諸国や日本以外に法治主義の成立している国はアメリカやカナダやオーストラリアなどです。それらはイギリス国民や西欧諸国の人々が中心となり、建国した国です。
アメリカの独立戦争は二者の平等を求める戦争でした。イギリスの植民地であったアメリカは本国から義務を負わされ、しかしそれに見合った十分な権利を与えられていなかった。それは本国が植民地を従者として扱うことであり、当時にあっては普通のことでした。しかしアメリカはそんな状況に対し憤激し、独立戦争を起こした、そしてイギリスに勝利し、独立を勝ち取った。それは代表無くして課税無、という当時の標語にみられるように、二者の平等を侵す専制者との戦いであった。その点、独立戦争はマグナカルタのアメリカ版といえます。そして平等主義の重要さを十分に認識していた人たちは建国の当初から法治国、民主国を目指した。
アメリカ合衆国の憲法制定の図
1787年、憲法草案が発表される、1788年、憲法が発効する
1789年、ジョージワシントンが憲法の下、初代大統領となる
1775年、アメリカはイギリスから独立しました。そしてまもなくアメリカ人は憲法を制定し、彼らの支配者と定めた。実際、アメリカは独立以来、一人の独裁者も許していません。そして専制を嫌い、自由主義を頑なまでに追求しています。それは素晴らしいことです。
しかしながらそんなアメリカ社会も問題を抱えています。それは国民の自由主義への圧倒的な信仰から生ずるものですが、自由主義が平等主義をしばしば押しつぶすことです。あるいは逆に平等主義のあくなき追求が自由主義を圧迫し、制約する。それは平等主義と自由主義との本質的な相克であり、アメリカの問題であると同時に中世以来の人類の問題です。
21世紀の世界と二つの支配体制
ロシアや中国は典型的な古代国です。21世紀の今も専制政治が行われている。過去、2000年間、彼らの国民は主権を握ったことがありません。人々は独裁者に服従し、反論や異論を唱えず、ひたすら下を向いて暮らしています。
独裁者は人びとの自立を認めませんから、自己が他者を認めるという構図は成立しません。そして独裁者は人々の自治体を認めませんから公は出現しない、それ故、人々は公が必然的に求める自制、集団合意、結束に無縁のままです。
独裁者が法であり、秩序です。人びとは2000年の間、社会秩序を自ら形成しようとはしませんでした、できなかったのです、いつも独裁者にそれを一任してきたのです。従ってそれは絶対的な支配であり、最悪の人治です。人々は分権制や双務契約を夢想さえしませんでした。
古代国にも納税はありました。例外的に土地を所有する人々は古代王に納税しました。そして重要なことですが、その納税は服従行為でした、しかし義務ではなかった。どういうことかといいますと納税しても人々はその見返りに古代王から何も得られなかったからです。すなわち納税は人々に自由や自立をもたらすものではなかった。人々はひたすら服従するだけです。古代国にギブアンドテイクは存在しません。
過去数十年、民主国の政治家の多くは古代国の民主化を楽観的に考えていました。それは古代国が経済的に発展すれば民主化が進み、やがて民主国に転じるであろうと。そのため民主国は古代国に巨額の資金と新しい生産技術を投入し、彼らの産業の現代化を積極的に応援した。
しかし残念ながらその考えは誤りでした。何故なら、経済的に発展した古代国は結局、民主化しなかったからです。むしろその古代国は専制を強化し、国民の自由をさらに制限した、そして諸々の国際法を乱暴に無視し、その上、支援を尽くした民主国と政治的、経済的、そして軍事的に対立さえする。つまり問題は国家の経済ではなかった、しかし国家の支配体制、そして国民の精神でした。結果的に政治家の皆さんのしたことは世界をより混乱させ、民主国群と専制国群の対立を深めたのです。彼らはこのことについて反省をするだけではなく、真剣に歴史を学ぶべきでしょう。
ところで第二次世界大戦後、世界の多くの植民地が独立を果し、希望に満ちて民主体制を一斉に布きましたが、21世紀の今日、民主政治を真に実践している国は少ない。彼らの多くは専制的な支配体制に傾いています、特に司法権が弱められ、その独立が脅かされる。それは中世を通過せず、民主政治に必須な強靭な精神を身につけることのなかったことの必然的な結果といえます。
今日、年を経るごとに世界から民主国は減っています。それは法治主義の世界的な後退を意味します。国の制度は民主風ですが、それは形だけという国が多い。そこでは権力者たちが目の上のたん瘤である司法権を弱体化する、反政府を唱えるマスコミを暴力をもって抑圧する。すなわち国民の抵抗権を骨抜きにし、権力を独占し、専制政治を断行する、それは文字通り、古代国への回帰です。
その点、<アラブの春>(2010~2011)は興味深い。21世紀の初め、アラブ諸国の国民は武力をもって独裁者を倒し、民主政治を目指しました。世界の国々はそんな彼らの革命を称賛したものです。しかし残念ことですが、どの国も民主国へと進展しませんでした。現在、アラブ諸国の国民統治は専制的な色彩を帯びています。例えば民主化は政教一体に由来する紛争、言論や集会の自由の制限、そして透明さを欠く選挙制度などによって停滞しています。
勿論、民主化は5年や10年で達成できる容易なものではない。アラブ諸国はこれから30年、あるいは100年の歳月をかけて、政治と宗教の分離、政治と軍事の分離、自律や順法精神の育成、選挙制度の透明化などを実現し、段階的に民主化を追求していくべきでしょう。さもなければアラブの春は新旧の独裁者の入れ替えにすぎず、古代国における反乱の一つとして記録されることになるでしょう。
世界にはそれでも民主国は存在します。例えばそれはトルコ、インド、韓国などです。これらの国も中世を通過してこなかった国です。トルコはオスマン帝国と呼ばれる古代国でした、インドはムガル帝国と呼ばれる古代国でした、そして朝鮮半島は朝鮮王朝の支配する古代国でした。これらの古代国は植民地主義の時代、侵入してきた帝国主義国の影響下において滅びました。その後、彼らは紆余曲折を経て民主国へと到達した。
これらの国は世界の多くの国々と同様、古代国からいきなり民主国へと跳ね上がりました。そして現在、これらの国では独裁者は存在せず、国民が主権を握っています、そして国会が開かれ、国の運営が決定されています。選挙も正常な形で行われています。そして彼らは他国を侵略しようとはしません。このように古代国が中世を通過することなく民主制を築くことは可能です。それは人類にとって朗報に違いありません。
但し、そこには一つ、問題が横たわっていました。それはこれら三国の法治主義が不安定なものであり、そして民主政治がしばしば破綻してしまうということです。それは中世を通過しなかった特殊な民主国の必然的な帰結です。彼らはロシアや中国の国民と同様、中世の精神(自治精神や順法精神)をしっかり身につける機会を持つことができなかった、そしてそれ故、古代の専制主義、形式主義、血縁主義、縁故主義、古代思想、古代身分制、そして政教一致などが今も彼らの社会に色濃く残っているからです。歴史は中抜きを許しません。
彼らの法治主義も民主政治も不安定です。その点、彼らの国は準現代国といえます。彼らは専制と民主制の間を不安定に揺れ動く。そして実際、彼らは国際政治の場においてある時は民主国の陣営につき、別の時には専制国の陣営に傾きます。
歴史の進化は簡単なことではありません。それは日本や西欧諸国の歴史に見られるように数百年を要するものです。専制を廃止し、民主制を樹立する、政治と宗教を分離する、古代思想や古代身分制から脱却する、そして法治主義を確立することは多くの犠牲と深い忍耐とを必要とします。
トルコは政教一体で悩んでいます。政教分離が果たされていないからです。オスマン帝国には勇猛な戦士(古代武士に相当する戦士)はたくさんいたことでしょう、しかしトルコにはイスラム教の現世勢力を駆逐する中世武士は登場しませんでした。その結果、21世紀の今も宗教勢力は淘汰されず、一定の影響力を持ち、国民の生活をしばしば左右します。
インドにおいても政教分離は果たされていません。ですから今も宗教や宗派の争いは頻発しており、放火や殺人が引き起こされています。
しかしインドにおける最大の問題はカースト制です。インドの憲法はカースト制の否定を謳っています、しかし現実のインド社会はカースト制に支配されています。
インドにはたくさんの階層が存在しています。それは仕事の違いをもとに区分されたものではなく、2000年以上にわたる侵略者や反乱者がした権力争いの繰り返しの中で国民が上下に細かく差別されてきたものです。社会の上層に生まれた少数の人々は一生、上流階級に生存し、一方社会の下層に生まれた者は一生、賤民として人生を過ごす。カースト制は特に女性を悪の存在として絶対的に差別し、女性の自立を許しません。インドは今も典型的な不平等国家です。インドの法治主義はとても弱々しい。
そして韓国は儒教に悩まされています。この古代思想は韓国人を思想の面で1000年以上にわたり、支配してきました。今も儒教の口当たりの良い上下主義や形式主義が韓国社会にこびりついていて、近代思想の厳しい法治主義や現実主義の成立を妨害しています。それは彼らの社会に不正や汚職が多発する原因です。
朝鮮の弱点はもう一つあります。それは人々が自治を経験しなかったことです。そのため朝鮮は国家存亡の危機においても人々は結束しなかった。彼らはそれぞれ異なった解決策や政策を主張し、自制も妥協もせず、その結果、朝鮮国内は分裂し、権力の空白地と化した。彼らのそんな自制を欠いた生き方は軍部の介入を招く、あるいは近隣諸国の侵略を招いた。実際、朝鮮はかつて中国の属国や日本の植民地へと転落したが、その原因は国民結束の失敗にあった。これは多くの古代国に共通する悲劇です。。
以上のことからトルコやインドや韓国などは法治国とは言い難い。それでも彼らが古代国に比べてはるかに優れた存在であることは確かです。彼らは独裁者を否定し、国民が主権を握っています。そして選挙制度を守り、国民(の代表)が物事を国会で決めようとしているからです。それは古代国ではほとんど実施されていない民主的な事柄です。ロシアや中国などの専制国の国民はトルコなどの現代化をどのように評価するのでしょうか。
今日の世界は民主国の陣営と専制国の陣営と大きく二極に分断されています。そしてその対立は日々、先鋭化しています。そして両者の関係は根本的に対立する関係です。何故なら民主国は歴史的に専制国を否定した上に成り立ったものだからです。否定するものと否定されるものとが同じ世界に並立するのですから、それは当然、対立的なものとなります。それは正面からぶつかり合う。残酷なことですが、<中世史の有無>が今日の世界と国々の形を決定しているのです。世界の二極化は悲劇です。人類は重い荷を背負っているのです。
一つ、提案があります。それは国際司法裁判所を五つか六つ、世界各地に新たに設置することです。アジアに二つくらい、アフリカに一つくらい、南アメリカに一つくらい、そして東ヨーロッパに一つくらいです。それは各地の紛争を調停する、あるいは裁くものです。今はハーグに一つあるだけです。この提案は生ぬるいものかもしれませんが、それでも武力ではなく、話し合いによる問題解決を各国に促すことは必要なことではないでしょうか。法治の大切さが認識されていくのではありませんか。
平和宮(へいわきゅう)国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)
世界自治
21世紀の世界は多くの独立国から成ります。国力の差は存在しますが、基本的にどの国も皆、対等です。世界全体を支配する支配者は存在しません。例えばアメリカは大国であり、軍事力や経済力や科学技術力において他の国を圧倒していますが、そんなアメリカでさえ一国の力で世界を支配することはできません。
今日の世界の問題は世界に唯一の支配者が存在しないことです。支配者が存在しないから世界秩序は形成されず、世界には様々な混乱が起きています。何故、支配者が存在しないかといえば世界の政治家が一つの誤った考えに縛られているからです。それは国内秩序に関しては各国の政府が責任をもって形成する、しかし一方、国際秩序の形成については各国の任意に任せるという能天気な思想です。国々は皆、立派な国であるから、彼らのやりたいように任せれば国際秩序は自然と形成されるというものです。
それは極めて楽観的な、そして無責任な考えです。現実の世界を見てください。いくつもの国は自律の精神など持っていません、国際法を無視する国、他国を侵略する国、国民の人権を侵す国などが跋扈しているではありませんか。しかも残念な事ですが、今日、それらの国を罰し、その蛮行を制止し、秩序を回復する国際機関は存在しません。口先だけの非難や仲介がせいぜいです。
その結果、21世紀、世界は混乱と紛争に満ちています、特に民主国家群と専制国家群との厳しい対立が不気味に進行しています。すでに述べましたが、その対立は国家の成り立ちを契機として発生した本質的なものですから圧倒的に根深い。
世界統治の核心は法治主義の確立です、すなわち世界を支配する憲法を制定することです。それは世界法です、そして世界規模の現代化革命です。
世界法とはかつて戦国の世を制した秀吉が発布した平和令のようなものです。例えば武力行使の禁止、訴訟の活用、武器の撤廃などを謳うもの、そして現行の種々の国際法を再編することです。そして世界各国は世界法と双務契約を結びます。それは世界規模の安全保障体制を築くことです。
もう一つ重要なことは世界が問題解決の最終手段として武力を準備することです。何故なら、残念ながら、人は話し合いだけで問題を解決しない、できないからです。それは明らかな事実です。人類史上、多くの局面で武力が問題を解決してきました。だからこそ大昔から今日まで人は常に武力を準備した。武力は秩序を破壊するだけではなく、秩序を形成もしたからです。
今日の世界にはいくつかの国際法が制定されています。しかし重要なことですが、多くの国際法はお飾りであるということです。というのはその法は実効性に乏しく、形式的な存在だからです。国際法を破ってもその国は罰せられることがない。何故なら、国際法には罰則も無ければ法を執行するための武力の裏打ちもないからです。そんな法は紙切れ一枚に等しい。ですから無法者は野放しの状態であり、世界は混乱しているのです。
世界の支配者である世界法が侵された時、例えば他国に侵入する国が現れた時、世界法と双務契約を結ぶ国々は彼らの主君である世界法を守るため、速やかに武力を持ち寄り、世界軍を結成し、その国を一斉に攻撃します。それは彼らの戦役です。
重要なことは世界法が実体ある罰則とそれを執行する武力を伴うことです。罰則の無い法など法とは言えません。それは必然的に世界連合軍の創設につながります。世界法を侵す国は世界軍の一斉攻撃を受けるのです、そして一時、国際社会から追放される、あるいはその国は解体されます。実際、世界軍を相手に戦いを挑もうとする国はどこにいるでしょうか。従ってすべての国際紛争は訴訟によって解決される、そんな時が訪れるのです。
世界法の制定や世界軍の創設は勿論、簡単なことではありません。しかし人類はそうすべき段階に来ているのではありませんか。これ以上、人類が殺し合わないため、そして専制国と民主国とが争わないために世界の人々は忍耐強く世界を一つにまとめあげるべきでしょう。それは世界規模の法治主義を確立するための革命です。世界の団結こそが専制と暴力を世界から追放する、その時、初めて国際秩序は回復されることでしょう。
歴史解釈と支配主体
<日本史の段階的進化>
|
古代1000年 |
中世700年 |
現代 |
支配者 |
古代王 |
中世王(封建領主) |
法(国民) |
国家体制 |
中央集権制 |
分権制 |
中央集権制 |
政府 |
中央政府 |
主従政府 |
中央政府 |
政治 |
専制政治 |
主従政治 |
民主政治 |
人的関係 |
上下関係 不平等主義、形式主義 |
主従関係(二者の平等) 平等主義、現実主義 |
万民の平等 自由主義 |
人権 |
------- |
領主権 武士権 農民権 抵抗権 |
基本的人権 |
自治 |
------- |
村自治 |
国自治(民主政治) |
さて中世日本についていろいろ語ってきましたが、契約や平等や人権などという抽象的なことばかりが語られて、退屈された方もいたかもしれません。普通の歴史書とは大分、違いますから。血沸き肉躍る中世の絵巻物はここにはありません。
上記に示したものはこれまでの説明を一つの表(ひょう)にまとめてみたものです。このまとめによって中世の理解が深まれば幸いです。ここには日本史の<支配主体の変遷>が描かれています。古代の支配主体、中世の支配主体、そして現代の支配主体です。
この表(ひょう)からわかることの一つは古代が直接、現代へと連続しないことです。古代の次には必ず、中世が来るのです、そしてその後に現代が来る。歴史は段階的に進むのです。中世抜きの歴史は不完全な歴史です。
例えば人的関係は三つの段階を経て成立します。人的関係は先ず、古代に上下関係として存在し、次に中世の主従関係である<上下関係プラス平等関係>として存在し、そして最終的に現代において完全な平等関係として成立します。それは蝶が幼虫、さなぎ、そして蝶と完全変態するように、です。それは魔法のようです。そして民主政治もいきなり現代に誕生したわけではありません。中世の村や都市に自治体が生まれ、成長し、そこに民主政治の原型が育まれていたからです。すべての物事には順序があります。
これまで日本においても西欧においても中世化革命という用語は存在しませんでした。この言葉は筆者の造語です。しかし歴史学において何故、それは存在しなかったのでしょう。古代を清算する、そして中世を造るこの世紀の大事業は何故、認識されなかったのか。何故、見過ごされてきたのでしょう。それは歴史学の大きな問題です。
人びとがこの革命を認め、歴史理解のために採用すれば古代と中世との明確な違いや古代から中世への鮮やかな推移が明瞭に認識されることでしょう、中世の本質も深さや重さを持って現れてくるでしょう。そして人類の持つ二つの革命と三つの歴史が織りなす美しい進化の全体像を見届けることになるでしょう。
中世化革命という概念は歴史教科書に取り入れられるべきです。
中世の本質
中世日本は12世紀から19世紀までの700年間でした。中世フランスは800年、中世ドイツは900年、そして中世イギリスは500年です。
中世の歴史的使命は専制主義を全廃することでした。そしてそのために中世人は二度、専制主義を打撃した。一回目の打撃は中世初期、中世化革命においてです。それは封建領主が領主権を獲得し、王権の二分割を実現した、そして専制主義の弱体化を図ったものです。それは分割主義の誕生でした。
二回目の打撃は中世末期、現代化革命においてです。革命は中世になお残存していた専制主義と分権主義の二つを殲滅し、法治主義を確立した。それは民主主義の誕生でした。中世の末期において人々はようやく人治の廃止のみが専制主義の殲滅を可能とすることを明確に理解したのです。そして彼らは法を国家の支配者とした。それは人類が1000年以上をかけて、そして多くの犠牲を払った末にようやく手に入れた優れた支配形態でした。その点、中世の歴史的使命は古代と現代とを繋げ、人治を廃止し、法治の確立を準備することにあったといえます。
中世が人類に贈った最も貴重なものは誠実さや責任感、そして自治精神と順法精神です。これらの強靭な精神はやがて訪れる法治と民主政治を支える基盤であり、現代国の成立を可能としたものです。筆者はこれらの精神を一まとめにして歴史精神と名付けます。
中世の本質は二つです。一つは双務契約です、そしてもう一つは分割主義です、この二つが中世国家を根本から創造し、数世紀にわたりそれを支え続けました。
双務契約は中世二重性の源泉です、双務契約は古代の片務契約が変革されたものです。そして双務契約の履行を通じて古代の特質と現代の特質とが混ざり合った、興味深い中世社会が出現したのです。そこでは不平等主義や形式主義と平等主義や現実主義とが奇妙に同居して、中世独特の表情を造っています。
<双務契約>
平等主義の誕生 |
(不平等主義からの解放、二者の平等) |
現実主義の誕生 |
(形式主義からの解放、事実の重視、政教分離の断行) |
自律の出現 |
(専制支配からの解放、自主性と自治の獲得) |
人権の誕生 |
(絶対権力からの解放、領主権、武士権、農民権の成立) |
中世の双務契約は明治維新において一斉に解約されます。そして国家と国民の間に新しい双務契約が結ばれます。それは国家と国民の間のギブアンドテイクです。現在の日本はその延長線上にあります。
中世のもう一つの本質が分割主義です。武家は古代の王土、王民、王権という絶対物を分割しました、そして新たに領地、領民、領主権という相対物を生み出しました。その結果、領地制、身分制、主従制という中世独自の土地や民や権力の在り方が成立したのです。
<分割主義>
国土の分割:領地制の成立 |
(領国、領地、村) |
国民の分割:身分制の成立 |
(武士、農民、町人) |
国家権力の分割:主従制の成立 |
(王権、領主権、武士権、農民権) |
尚、分割主義は明治維新において廃止され、そしてそれまで分割されていた国土、国民、国家権力は新しく設置された中央政府の下に集められ、一元化されます。それは日本が分権国から中央集権国へと移行することでした。現在の日本はその延長線上にあります。
完