第2章 中世日本

第1節 中世日本の支配体制

二都時代を乗り越えて

 中世日本は鎌倉時代から始まります。日本の新しい支配者は武士です。彼らは日本史上、初めて古代王朝から自立した人たちでした。彼らは武家独自の政権を樹立し、東日本を支配しました。
 当時、関東の地は京都から遠く、一種、無法の地に近かった。それでも幾人もの地方長官が荒々しく請負統治を行い、そして多くの武士も存在し、領地を得ようと、開発にしのぎを削っていました。そんな地に鎌倉幕府は開かれました。幕府の創設者はクーデターを鎮めた武将、源頼朝でした。
 一方、古代王は依然として日本の王として君臨していましたが、その支配は西日本が中心でした。というのは都が西国に位置していただけではなく、東国には武家政権が開かれ、独自の支配が繰り広げられていたからです。その結果、古代王は西国にこれまでと同様に中央集権制を布き、専制政治を続けていたのです。貴族たちも武家の自立を横目で見ながらも多数の荘園を所有し、裕福な生活を送っていました。


<日本地図>

日本地図

 従って日本は特殊な時代を迎えます。それは二都時代です。一国に二つの政権が誕生した、西国に古代王朝が存在し、西国を支配する、一方東国には武家政権が成立し、東国を支配する。この二都時代は鎌倉時代から室町時代まで約4世紀、続きました。それが中世日本の初期の姿です。そうした古代の支配と中世の支配とが並立する時代は世界の中で日本だけに見られる特殊なものでした。それは世界史上、特筆されるべき事柄です。
 日本と同様、古代から中世へと進んだ国は西欧諸国です。しかし彼らは古代と中世とが重なり合う二都時代を経験しませんでした。何故なら彼らの古代国であるフランク王国(5世紀後半~10世紀)は<自滅>した、そしてその後にいくつかの中世国が誕生したからです。つまり古代国と中世国とが並立し、対立する時期はありませんでした。
 フランク王国はフランク王を頂点とし、西欧全体を数世紀に渡り支配した巨大な中央集権国でした。フランク王は西欧各地に貴族を派遣し、地方統治を行う、あるいはその地の豪族に統治を命じ、請負統治を実施していました。それは典型的な古代支配であり、<古代王、中央集権制、専制政治>の支配主体から成るものです。
 フランク王国は10世紀に自滅します。その結果、西欧は無法の地となりますが、その中からいくつかの中世国が誕生しました。今日のフランスやドイツなどに転じる中世フランスや中世ドイツ(神聖ローマ帝国)などです。西欧の中世はこの時から始まりました。従って10世紀を境に、以前が西欧古代であり、そして以後が西欧中世となります。歴史年表に一本の縦線が引かれるのです。従って二都時代は存在しません。
 (一般的には西欧の中世は5世紀から始まるといわれています。古代ローマ帝国が崩壊した後からです。そこにフランク王国が誕生し、中世が始まった、と。しかしフランク王国は日本の古代王朝と同じ古代国です。何故ならフランク王国は国王を頂点とする中央集権国であり、専制政治が行われていたからです。それは日本の古代王朝と同じです。本論は西欧中世が10世紀から始まったということをも証明します。)
 フランク王国の崩壊後、西欧各地には多くの封建領主が誕生しました。封建領主たちの多くはかつてフランク王国において支配者層(貴族)を形成していた人たちであり、上級役人や地方長官などです。彼らは王国の崩壊の過程で武力を身につけ、騎士へと変身し、それまで統治していた領地を死守しました。そして彼らは封建領主に転じていったのです。それが中世西欧の黎明期の状況でした。
 例えば中世フランスでは新しく生まれた封建領主たちが領地の拡大をめぐり、争いを繰り返していましたが、やがて一時、戦いを止めて、彼らは一堂に集まり、選挙を行いました、それは彼らの中から中世王を選ぶ互選です。そこで選ばれた者がカペー家の当主、ユーグ(940年頃~996年)でした。彼は中世フランスの最初の中世王であり、中世日本における頼朝に相当します。彼はパリを領地とする封建領主の一人でした。この時から中世フランスは形成されていくのです。
 従って封建領主の成り立ちに関していえば中世西欧と中世日本とでは大きく異なっていました。日本では貴族は貴族のままであり、武士へと変身しませんでした、何故なら彼らの王朝は衰えたといっても支配能力を依然として維持し、西国を統治し続けていたからです。
 一方、武士は平安時代、王朝と貴族に仕える戦士でした。彼らは王朝の軍事を担当する軍事貴族の子孫や荘園の管理人、徴税人でした、あるいは荘園を自ら開発した元地方役人や有力農民などです。つまり彼らの多くは古代王朝の下層にいた人たちです。
 そのためでしょう、武家はあえて貴族との違いを明確にするとともに新しい人種として自己の証明に努めました。武士は素朴で厳しい戦士としての道徳律を編みました。それが武士道です。武士は武力と実直さを全面に押し出して、貴族との違いを際立たせていった。それは貴族的な要素を多分に持ち続けていた騎士と大きな違いでした。
 そして日本史と西欧史との違いはもう一つあります。それは武士が実力をもって古代王朝を打倒したことに比べ、西欧の騎士は古代王朝を打倒しなかった、する必要がなかった、何故なら(すでに述べましたが)古代王朝は自滅していたからです。つまり世界で古代王朝を打倒し、中世を切り開いた国は日本だけであるということです。(中世イギリスは独自の中世化を行っていました。それは第3章で詳述します)
 それでも西欧諸国は日本同様、中世世界を形成しました。騎士という新しい人種が誕生し、古代の専制主義を超克し、中世世界(封建社会)を構築していったからです。武士や騎士という古代王朝から自立する戦士の出現は世界で日本と西欧諸国だけです。武士は武士道を著し、そして騎士も騎士道を追求しました。
 武士や騎士は世界の他の国々には決して存在しない人種でした。ロシアや中国など世界の国々では戦士は常に王朝に従属し、王朝から自立していません。それは古代武士といえます。一方、武士や騎士は中世の戦士であり、土地を持つ自立した戦士です。そして彼らの樹立した鎌倉幕府もカペー王朝も古代国から自立した政権でした。この違いは決定的です。武士や騎士は新しい時代を開きました。そしてそこに生まれたものが封建主義と呼ばれる歴史概念でした。その結果、日本の歴史は専制主義(古代)――封建主義(中世)――民主主義(現代)の推移として現れることになる。日本において封建主義は鎌倉時代から江戸時代まで700年間、機能しました。
 中世日本についてそして封建主義に関してこれから順次、解説していきますが、封建主義という歴史用語はこれ以上、使用しません。封建主義の代わりに<分割主義>という言葉を使用します。分割主義は筆者の造語です。というのは今日、封建主義という用語にはいろいろな解釈がこびりついており、その意味がとてもあいまいだからです。一方、<分割主義>という言葉は単純であり、しかも無機的であり、意味付けを退け、理論の構築にふさわしい。そしてこれは中世の姿をわかりやすく、そして実体的に表します。
 横道にそれてしまったようです。話をもとに戻します。さて二都時代は当然のことながら不安定な時代でした。二都時代の初期、西の古代国と東の中世国とはあいまいに日本を分け合っていました。どちらも決定的な力を持っていません、互いに相手を値踏みしながら協調と対立を繰り返していました。しかしこの二都時代は最終的に武家の勝利で終わります。戦国時代において武家が王朝を打倒するのです。その時、王朝は実質的にそして全面的に消滅します。武家は約400年間を費やし、王朝の持つ権力を奪い取っていったのです。それは武家が日本の唯一の盟主となる過程でした。
 武家は王朝に対し、四度、大きく勝利しました。一つは守護、地頭の設置(1185)です。 鎌倉幕府は関東の武士を各地に派遣し、守護として治安維持の仕事をさせる、そして地頭として派遣し、荘園の管理や徴税をさせました。この政策は頼朝がクーデターを鎮めた後、全国各地の治安の回復を口実にして、古代王に強制的に認めさせたものです。それは古代王朝の地方統治への大胆な介入でした。
 その結果、二重行政が生じます。各地にはすでに王朝から派遣されていた役人や荘園領主の管理人が存在し、働いていたからです。当然、両者は同じ仕事を奪い合うことになります。王朝の地方統治と幕府の地方統治との衝突です。この対立は決まって武士の勝利として終わりました。武士は武力をもって彼らを駆逐していったからです。王朝は幾度も幕府に対し、この横暴に対し抗議を繰り返しましたが、それは結局徒労に終わりました。王朝の地方支配は徐々に切り崩されていったのです。

中世日本の年表

二都時代戦国時代桃山政権江戸幕府
古代王朝と
鎌倉幕府
古代王朝と
室町幕府
首都 京都、鎌倉 京都、京都 ------------ 大阪 江戸
創始者 古代王と
源頼朝
古代王と
足利尊氏
------------ 豊臣秀吉 徳川家康
主要事件 守護
地頭の設置
承久の乱
守護大名の誕生
日本建築
日本庭園
古代王朝、室町幕府、既存の封建領主の消滅、荘園制の崩壊、戦国大名の登場 石高制の設置
国替え
平和令の布告
2世紀に渡る平和
身分制の確立
参勤交代
武家諸法度

※二都時代は鎌倉時代と室町時代です
※戦国時代は15世紀末から16世紀後半までを指します


 武家のもう一つの勝利は承久の乱(1221)においてです。鎌倉幕府は王朝と戦い、圧勝しました。これも有名な戦いです。古代王はあくまでも日本唯一の支配者として君臨したい、東国の武家政権を認めたくありません。そのため頼朝亡き後、古代王は鎌倉幕府を潰そうと企てました。彼は全国の武士に北条義時(当時の幕府の最高責任者)を討てと命令したのです。
 鎌倉幕府は事実上、朝敵となりました。しかし幕府は逃げることも平伏することもせず、古代王との戦を選びました。そして武士の大軍を京都に向けて進めた。その結果は武家の圧勝でした。幕府は乱の首謀者である古代王とその従者たちを京都から追放しました。
 さらに幕府は王朝から軍事権を剥奪します。王朝はすでに独自の軍隊を持っていませんでしたが、幕府は京都に守護を設置し、王朝を常時、監視することにしたのです。これによって武家は王朝と並立するというよりも王朝を管理する立場に変わったのです。王朝の凋落は明らかでした。
 武家の三番目の勝利は荘園制の崩壊です。それは鎌倉時代と室町時代を通じて武家は王朝の地方支配に大きな穴を開けましたが、同時に王家や公家の持つ荘園を横領し続けたからです。武家は荘園領主の下働き(荘園管理者)を脱し、荘園の新たな所有者に転じました、そして荘園からの上りをそっくり受け取る。この横領は戦国時代において完了しました。
 14世紀前半、室町幕府が京都に成立しました、それは第二の武家政権であり、約230年間、続きました。室町時代の半ばのことです、将軍家と有力封建領主の家々はそろって世襲でつまずき、全国規模の内乱を引きおこした。それは室町幕府滅亡の始まりであり、そして約100年間、続く戦国時代の始まりでした。
 将軍の統治力は著しく弱まって、彼による領地安堵を信用する封建領主は最早、存在しません。当然のことながら、保護を失った封建領主は自らの力で自国を守らなければいけない。それは群雄割拠の始まりであり、無法の時代の出現でした。
 奇襲や暗殺や裏切りや政略結婚や合従連衡などに彩られた、血の色の時代です。その戦乱の中で既存の権力はそろって崩壊していきました。すなわち古代王朝、室町幕府、そしてそれまで勢力を誇っていた封建領主たちが滅んでいったのです。彼らに代わり、登場した者が戦国大名と呼ばれる新しい封建領主であり、やがて中世日本を完成する者たちです。(この戦乱の地と化した日本を訪れた者が宣教師シャビエルでした。)
 この戦乱の時代の中で荘園制度も崩壊していきました。荘園は王朝や王家や貴族にとって必要不可欠な財源でした。それを所有していたからこそ軍事力を失っても、そして地方統治を骨抜きにされてもどうにかして生き延びることができていたのです。しかし彼らはその財源までをも武家によって奪われました。
 そして武家の四番目の勝利は楽市、楽座の導入でした。戦国時代、戦国大名は商人と職人を自らの領国に招き入れ、自由に活動させました。しかも戦国大名は彼らから税をとりません。それは自国の市場経済を活性化し、富国強兵を目指す政策でした。それまで有力商人と有力職人は古代王朝と寺社の支配下にあり、彼らから特権を与えられ、それなりに有利な活動を続けていました。それ故、彼らは王朝と寺社に税を支払ってきたのです。しかし楽市楽座の導入により商人と職人は封建領主の国へその活動の場を移し、自由に商売を始めました。そして当然のことですが、彼らは最早、王朝と寺社へ税を支払いません。それは王朝と寺社の支配からの脱却でした、王朝はそんな商人と職人の世紀の移動を阻止できなかったのです。
 こうして王は軍事権を失い、荘園を剥奪され、農民からの税を失い、さらに商人と職人の離反によって彼らからの税をも失ったのです。そしてわずかに残っていた寺社の支配権までもが武家によって奪われた。八方ふさがりです。万事休すです。古代王は最早、天下に号令をかけることはできません。
 一方、武家は貴族、寺社、農民、商人、職人を全面的に支配下に置くことになりました、日本の支配者は明らかに交代したのです。それは古代支配の終焉でした。古代王は<軍事力と財力と地方支配力>の三つを失い、文字通り、丸裸になります。それは二都時代の終焉でした。
 戦国時代を制した武将は豊臣秀吉(1537~1598)でした。彼は全国の封建領主との戦いに勝利して、日本を統一し、新しい中世王となり、豊臣政権を樹立しました。首都は大阪です。それは桃山時代(1585-1603)の始まりでした。それはとても短い時代でしたが、中世日本にとって極めて重要な時代でありました。


<大阪城>

大阪城

1598年 秀吉によって築城される
1629年 徳川秀忠によって修築される


 秀吉は古代王にとどめを刺します。それは王を日本国の象徴と化すことでした。秀吉は古代王の生存を許し、王家の世襲を認め、王朝を財政的に支えました。その代り古代王からすべての実権を剥奪し、彼を京都の御所に閉じ込めた、そして彼に官位叙任、改元、王朝の儀礼の仕事だけを与えます。形式的な仕事です。古代王は天下に号令をかけるという王権を剥奪され、有名無実の存在と化したのです。それは<君臨すれど、統治せず>の状態です。古代王は学問の世界に生きることになり、この状態は明治維新まで続きました。
 その時、古代の支配主体である<古代王、中央集権制、専制政治>は全面的に消滅し、古代日本は崩壊したのです。それは飛鳥時代から数えて約1000年後のことでした。従って戦国時代において死亡したものは古代です。そして一方、中世は桃山時代に確立したのです。頼朝から始まった中世は二都時代を経て、秀吉でいちおうの実を結び、徳川の世において盛期を迎えるのです。これが中世700年の歴史の全体像です。
 さて古代王の象徴化という事態は世界の中で日本だけに生じた世界の奇観です。何故なら世界史において古代王とは殺害される王、あるいは自滅する王だからです。例えばフランスの古代王(西フランク王)は自滅しました。イングランドの古代王は11世紀、ノルマン人の襲撃によって殺害されました。ノルマン征服です。そしてノルマンの征服王ウィリアムは初代中世王としてイングランドに君臨します、そして国土を分割し、ノルマン軍人たちにそれぞれ領地を与えました。それは領地安堵であり、その時、イングランドは分権国と化したのです。それは中世イングランドの誕生でした。
 やがて17世紀、イングランドに名誉革命が勃発します、その結果、中世王は実権を奪われ、象徴王と化します。君臨すれど、統治せず、です。国民(元封建領主や富裕者など)がイングランドの主権を握り、世界で初めて議会政治を開催します。一方、象徴と化した中世王家はその後も世襲を繰り返し、故エリザベス女王(1926-2022)はその末裔でした。すなわち彼女は中世象徴王でした。従ってイギリスには、そして世界には古代象徴王というものは存在しないのです。日本の古代王家のみです、それが世界で唯一、古代、中世、現代の三つの歴史を生き抜いた王家です。


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