二都時代を乗り越えて
中世日本は鎌倉時代から始まります。日本の新しい支配者は武士です。彼らは日本史上、初めて古代王朝から自立した人たちでした。彼らは武家独自の政権を樹立し、東日本を支配しました。
当時、関東の地は京都から遠く、一種、無法の地に近かった。それでも幾人もの地方長官が荒々しく請負統治を行い、そして多くの武士も存在し、領地を得ようと、開発にしのぎを削っていました。そんな地に鎌倉幕府は開かれました。幕府の創設者はクーデターを鎮めた武将、源頼朝でした。
一方、古代王は依然として日本の王として君臨していましたが、その支配は西日本が中心でした。というのは都が西国に位置していただけではなく、東国には武家政権が開かれ、独自の支配が繰り広げられていたからです。その結果、古代王は西国にこれまでと同様に中央集権制を布き、専制政治を続けていたのです。貴族たちも武家の自立を横目で見ながらも多数の荘園を所有し、裕福な生活を送っていました。
<日本地図>
従って日本は特殊な時代を迎えます。それは二都時代です。一国に二つの政権が誕生した、西国に古代王朝が存在し、西国を支配する、一方東国には武家政権が成立し、東国を支配する。この二都時代は鎌倉時代から室町時代まで約4世紀、続きました。それが中世日本の初期の姿です。そうした古代の支配と中世の支配とが並立する時代は世界の中で日本だけに見られる特殊なものでした。それは世界史上、特筆されるべき事柄です。
日本と同様、古代から中世へと進んだ国は西欧諸国です。しかし彼らは古代と中世とが重なり合う二都時代を経験しませんでした。何故なら彼らの古代国であるフランク王国(5世紀後半~10世紀)は<自滅>した、そしてその後にいくつかの中世国が誕生したからです。つまり古代国と中世国とが並立し、対立する時期はありませんでした。
フランク王国はフランク王を頂点とし、西欧全体を数世紀に渡り支配した巨大な中央集権国でした。フランク王は西欧各地に貴族を派遣し、地方統治を行う、あるいはその地の豪族に統治を命じ、請負統治を実施していました。それは典型的な古代支配であり、<古代王、中央集権制、専制政治>の支配主体から成るものです。
フランク王国は10世紀に自滅します。その結果、西欧は無法の地となりますが、その中からいくつかの中世国が誕生しました。今日のフランスやドイツなどに転じる中世フランスや中世ドイツ(神聖ローマ帝国)などです。西欧の中世はこの時から始まりました。従って10世紀を境に、以前が西欧古代であり、そして以後が西欧中世となります。歴史年表に一本の縦線が引かれるのです。従って二都時代は存在しません。
(一般的には西欧の中世は5世紀から始まるといわれています。古代ローマ帝国が崩壊した後からです。そこにフランク王国が誕生し、中世が始まった、と。しかしフランク王国は日本の古代王朝と同じ古代国です。何故ならフランク王国は国王を頂点とする中央集権国であり、専制政治が行われていたからです。それは日本の古代王朝と同じです。本論は西欧中世が10世紀から始まったということをも証明します。)
フランク王国の崩壊後、西欧各地には多くの封建領主が誕生しました。封建領主たちの多くはかつてフランク王国において支配者層(貴族)を形成していた人たちであり、上級役人や地方長官などです。彼らは王国の崩壊の過程で武力を身につけ、騎士へと変身し、それまで統治していた領地を死守しました。そして彼らは封建領主に転じていったのです。それが中世西欧の黎明期の状況でした。
例えば中世フランスでは新しく生まれた封建領主たちが領地の拡大をめぐり、争いを繰り返していましたが、やがて一時、戦いを止めて、彼らは一堂に集まり、選挙を行いました、それは彼らの中から中世王を選ぶ互選です。そこで選ばれた者がカペー家の当主、ユーグ(940年頃~996年)でした。彼は中世フランスの最初の中世王であり、中世日本における頼朝に相当します。彼はパリを領地とする封建領主の一人でした。この時から中世フランスは形成されていくのです。
従って封建領主の成り立ちに関していえば中世西欧と中世日本とでは大きく異なっていました。日本では貴族は貴族のままであり、武士へと変身しませんでした、何故なら彼らの王朝は衰えたといっても支配能力を依然として維持し、西国を統治し続けていたからです。
一方、武士は平安時代、王朝と貴族に仕える戦士でした。彼らは王朝の軍事を担当する軍事貴族の子孫や荘園の管理人、徴税人でした、あるいは荘園を自ら開発した元地方役人や有力農民などです。つまり彼らの多くは古代王朝の下層にいた人たちです。
そのためでしょう、武家はあえて貴族との違いを明確にするとともに新しい人種として自己の証明に努めました。武士は素朴で厳しい戦士としての道徳律を編みました。それが武士道です。武士は武力と実直さを全面に押し出して、貴族との違いを際立たせていった。それは貴族的な要素を多分に持ち続けていた騎士と大きな違いでした。
そして日本史と西欧史との違いはもう一つあります。それは武士が実力をもって古代王朝を打倒したことに比べ、西欧の騎士は古代王朝を打倒しなかった、する必要がなかった、何故なら(すでに述べましたが)古代王朝は自滅していたからです。つまり世界で古代王朝を打倒し、中世を切り開いた国は日本だけであるということです。(中世イギリスは独自の中世化を行っていました。それは第3章で詳述します)
それでも西欧諸国は日本同様、中世世界を形成しました。騎士という新しい人種が誕生し、古代の専制主義を超克し、中世世界(封建社会)を構築していったからです。武士や騎士という古代王朝から自立する戦士の出現は世界で日本と西欧諸国だけです。武士は武士道を著し、そして騎士も騎士道を追求しました。
武士や騎士は世界の他の国々には決して存在しない人種でした。ロシアや中国など世界の国々では戦士は常に王朝に従属し、王朝から自立していません。それは古代武士といえます。一方、武士や騎士は中世の戦士であり、土地を持つ自立した戦士です。そして彼らの樹立した鎌倉幕府もカペー王朝も古代国から自立した政権でした。この違いは決定的です。武士や騎士は新しい時代を開きました。そしてそこに生まれたものが封建主義と呼ばれる歴史概念でした。その結果、日本の歴史は専制主義(古代)――封建主義(中世)――民主主義(現代)の推移として現れることになる。日本において封建主義は鎌倉時代から江戸時代まで700年間、機能しました。
中世日本についてそして封建主義に関してこれから順次、解説していきますが、封建主義という歴史用語はこれ以上、使用しません。封建主義の代わりに<分割主義>という言葉を使用します。分割主義は筆者の造語です。というのは今日、封建主義という用語にはいろいろな解釈がこびりついており、その意味がとてもあいまいだからです。一方、<分割主義>という言葉は単純であり、しかも無機的であり、意味付けを退け、理論の構築にふさわしい。そしてこれは中世の姿をわかりやすく、そして実体的に表します。
横道にそれてしまったようです。話をもとに戻します。さて二都時代は当然のことながら不安定な時代でした。二都時代の初期、西の古代国と東の中世国とはあいまいに日本を分け合っていました。どちらも決定的な力を持っていません、互いに相手を値踏みしながら協調と対立を繰り返していました。しかしこの二都時代は最終的に武家の勝利で終わります。戦国時代において武家が王朝を打倒するのです。その時、王朝は実質的にそして全面的に消滅します。武家は約400年間を費やし、王朝の持つ権力を奪い取っていったのです。それは武家が日本の唯一の盟主となる過程でした。
武家は王朝に対し、四度、大きく勝利しました。一つは守護、地頭の設置(1185)です。
鎌倉幕府は関東の武士を各地に派遣し、守護として治安維持の仕事をさせる、そして地頭として派遣し、荘園の管理や徴税をさせました。この政策は頼朝がクーデターを鎮めた後、全国各地の治安の回復を口実にして、古代王に強制的に認めさせたものです。それは古代王朝の地方統治への大胆な介入でした。
その結果、二重行政が生じます。各地にはすでに王朝から派遣されていた役人や荘園領主の管理人が存在し、働いていたからです。当然、両者は同じ仕事を奪い合うことになります。王朝の地方統治と幕府の地方統治との衝突です。この対立は決まって武士の勝利として終わりました。武士は武力をもって彼らを駆逐していったからです。王朝は幾度も幕府に対し、この横暴に対し抗議を繰り返しましたが、それは結局徒労に終わりました。王朝の地方支配は徐々に切り崩されていったのです。
<中世日本の年表>
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二都時代 | 戦国時代 | 桃山政権 | 江戸幕府 |
古代王朝と 鎌倉幕府 |
古代王朝と 室町幕府 |
首都 |
京都、鎌倉 |
京都、京都 |
------------ |
大阪 |
江戸 |
創始者 |
古代王と 源頼朝 |
古代王と 足利尊氏 |
------------ |
豊臣秀吉 |
徳川家康 |
主要事件 |
守護 地頭の設置 承久の乱 |
守護大名の誕生 日本建築 日本庭園 |
古代王朝、室町幕府、既存の封建領主の消滅、荘園制の崩壊、戦国大名の登場 |
石高制の設置 国替え 平和令の布告 |
2世紀に渡る平和 身分制の確立 参勤交代 武家諸法度 |
※二都時代は鎌倉時代と室町時代です
※戦国時代は15世紀末から16世紀後半までを指します
武家のもう一つの勝利は承久の乱(1221)においてです。鎌倉幕府は王朝と戦い、圧勝しました。これも有名な戦いです。古代王はあくまでも日本唯一の支配者として君臨したい、東国の武家政権を認めたくありません。そのため頼朝亡き後、古代王は鎌倉幕府を潰そうと企てました。彼は全国の武士に北条義時(当時の幕府の最高責任者)を討てと命令したのです。
鎌倉幕府は事実上、朝敵となりました。しかし幕府は逃げることも平伏することもせず、古代王との戦を選びました。そして武士の大軍を京都に向けて進めた。その結果は武家の圧勝でした。幕府は乱の首謀者である古代王とその従者たちを京都から追放しました。
さらに幕府は王朝から軍事権を剥奪します。王朝はすでに独自の軍隊を持っていませんでしたが、幕府は京都に守護を設置し、王朝を常時、監視することにしたのです。これによって武家は王朝と並立するというよりも王朝を管理する立場に変わったのです。王朝の凋落は明らかでした。
武家の三番目の勝利は荘園制の崩壊です。それは鎌倉時代と室町時代を通じて武家は王朝の地方支配に大きな穴を開けましたが、同時に王家や公家の持つ荘園を横領し続けたからです。武家は荘園領主の下働き(荘園管理者)を脱し、荘園の新たな所有者に転じました、そして荘園からの上りをそっくり受け取る。この横領は戦国時代において完了しました。
14世紀前半、室町幕府が京都に成立しました、それは第二の武家政権であり、約230年間、続きました。室町時代の半ばのことです、将軍家と有力封建領主の家々はそろって世襲でつまずき、全国規模の内乱を引きおこした。それは室町幕府滅亡の始まりであり、そして約100年間、続く戦国時代の始まりでした。
将軍の統治力は著しく弱まって、彼による領地安堵を信用する封建領主は最早、存在しません。当然のことながら、保護を失った封建領主は自らの力で自国を守らなければいけない。それは群雄割拠の始まりであり、無法の時代の出現でした。
奇襲や暗殺や裏切りや政略結婚や合従連衡などに彩られた、血の色の時代です。その戦乱の中で既存の権力はそろって崩壊していきました。すなわち古代王朝、室町幕府、そしてそれまで勢力を誇っていた封建領主たちが滅んでいったのです。彼らに代わり、登場した者が戦国大名と呼ばれる新しい封建領主であり、やがて中世日本を完成する者たちです。(この戦乱の地と化した日本を訪れた者が宣教師シャビエルでした。)
この戦乱の時代の中で荘園制度も崩壊していきました。荘園は王朝や王家や貴族にとって必要不可欠な財源でした。それを所有していたからこそ軍事力を失っても、そして地方統治を骨抜きにされてもどうにかして生き延びることができていたのです。しかし彼らはその財源までをも武家によって奪われました。
そして武家の四番目の勝利は楽市、楽座の導入でした。戦国時代、戦国大名は商人と職人を自らの領国に招き入れ、自由に活動させました。しかも戦国大名は彼らから税をとりません。それは自国の市場経済を活性化し、富国強兵を目指す政策でした。それまで有力商人と有力職人は古代王朝と寺社の支配下にあり、彼らから特権を与えられ、それなりに有利な活動を続けていました。それ故、彼らは王朝と寺社に税を支払ってきたのです。しかし楽市楽座の導入により商人と職人は封建領主の国へその活動の場を移し、自由に商売を始めました。そして当然のことですが、彼らは最早、王朝と寺社へ税を支払いません。それは王朝と寺社の支配からの脱却でした、王朝はそんな商人と職人の世紀の移動を阻止できなかったのです。
こうして王は軍事権を失い、荘園を剥奪され、農民からの税を失い、さらに商人と職人の離反によって彼らからの税をも失ったのです。そしてわずかに残っていた寺社の支配権までもが武家によって奪われた。八方ふさがりです。万事休すです。古代王は最早、天下に号令をかけることはできません。
一方、武家は貴族、寺社、農民、商人、職人を全面的に支配下に置くことになりました、日本の支配者は明らかに交代したのです。それは古代支配の終焉でした。古代王は<軍事力と財力と地方支配力>の三つを失い、文字通り、丸裸になります。それは二都時代の終焉でした。
戦国時代を制した武将は豊臣秀吉(1537~1598)でした。彼は全国の封建領主との戦いに勝利して、日本を統一し、新しい中世王となり、豊臣政権を樹立しました。首都は大阪です。それは桃山時代(1585-1603)の始まりでした。それはとても短い時代でしたが、中世日本にとって極めて重要な時代でありました。
<大阪城>
1598年 秀吉によって築城される
1629年 徳川秀忠によって修築される
秀吉は古代王にとどめを刺します。それは王を日本国の象徴と化すことでした。秀吉は古代王の生存を許し、王家の世襲を認め、王朝を財政的に支えました。その代り古代王からすべての実権を剥奪し、彼を京都の御所に閉じ込めた、そして彼に官位叙任、改元、王朝の儀礼の仕事だけを与えます。形式的な仕事です。古代王は天下に号令をかけるという王権を剥奪され、有名無実の存在と化したのです。それは<君臨すれど、統治せず>の状態です。古代王は学問の世界に生きることになり、この状態は明治維新まで続きました。
その時、古代の支配主体である<古代王、中央集権制、専制政治>は全面的に消滅し、古代日本は崩壊したのです。それは飛鳥時代から数えて約1000年後のことでした。従って戦国時代において死亡したものは古代です。そして一方、中世は桃山時代に確立したのです。頼朝から始まった中世は二都時代を経て、秀吉でいちおうの実を結び、徳川の世において盛期を迎えるのです。これが中世700年の歴史の全体像です。
さて古代王の象徴化という事態は世界の中で日本だけに生じた世界の奇観です。何故なら世界史において古代王とは殺害される王、あるいは自滅する王だからです。例えばフランスの古代王(西フランク王)は自滅しました。イングランドの古代王は11世紀、ノルマン人の襲撃によって殺害されました。ノルマン征服です。そしてノルマンの征服王ウィリアムは初代中世王としてイングランドに君臨します、そして国土を分割し、ノルマン軍人たちにそれぞれ領地を与えました。それは領地安堵であり、その時、イングランドは分権国と化したのです。それは中世イングランドの誕生でした。
やがて17世紀、イングランドに名誉革命が勃発します、その結果、中世王は実権を奪われ、象徴王と化します。君臨すれど、統治せず、です。国民(元封建領主や富裕者など)がイングランドの主権を握り、世界で初めて議会政治を開催します。一方、象徴と化した中世王家はその後も世襲を繰り返し、故エリザベス女王(1926-2022)はその末裔でした。すなわち彼女は中世象徴王でした。従ってイギリスには、そして世界には古代象徴王というものは存在しないのです。日本の古代王家のみです、それが世界で唯一、古代、中世、現代の三つの歴史を生き抜いた王家です。
中世王の王権
それでは中世について具体的にお話していきます。先ず、中世の支配者である中世王についてです。
中世の支配者は武士です、精確に言えば封建領主です。封建領主は時代によって変動しましたが、日本には数十名から数百名いました。彼らは大きな領地を所有し、多くの武士を従え、強大な武力を誇り、そして農民を支配しました。彼らは時代によって呼び名が変わりました。それは地頭、守護大名、戦国大名そして大名です。
さて特筆すべきことですが、封建領主たちは仲間の封建領主から一人を選び、彼を中世王(武家の盟主)としました。積極的であれ、消極的であれ、それは彼らの合意です。日本史上、中世王となった者は頼朝や秀吉や家康などです。
何故、封建領主たちは一人の盟主を選ぶのかといえば中世には本来、土地所有を決定する絶対者が存在しないからです。荒れ地で土地を奪い合う領主たちは皆平等であり、一人の特権者もいません。古代には古代王という絶対者が存在し、彼が土地所有を含め、直接、あるいは間接的にすべての案件を裁きました。しかし中世に絶対者は存在しません。ですから封建領主は土地争いを永遠に続けなければならない。それではいつになっても秩序は形成されません。
そこで封建領主たちは彼らの中から一人を彼らの盟主として選ぶのです、そして彼に土地の所有者を決定する大権を与える。例えば、関東の領主たちは彼らの盟主として頼朝を選んだ、そして頼朝はこの大権をもって領主たちの土地所有を認定しました。その決定の基準は領主が長年、その地を所有し、支配していたこと、領主が頼朝に忠節を尽くしていること、そして領主が華々しく敵と戦い、頼朝を守ったことです。封建領主たちは頼朝の土地所有の裁定に従順に従います、何故なら彼らがそれを望んだからです。そしてそれのみが彼らの土地所有を公的に認定し、保障するからです。
頼朝は領主に対し、領地を安堵すると同時に領主権を与えました。領主権とは封建領主が彼の領民(武士と農民)を支配する権利です。封建領主が彼の領地の支配者です。彼は武士を使役し、近隣の敵と戦い、領地の拡大を目指した、そして農民を使役し、富を蓄積し、領地経営の安定を図りました。領主権は日本史上、初めて現れた生存権であり、人権でした。領主権の有無は古代と中世とを根本的に分かつものです。
その結果、関東の地の権威は頼朝に属し、そして関東の権力は頼朝を含めた20数名の封建領主たちに分割、所有されました。権威と権力の両方が一人の支配者に属すのではなく、しかし二者がそれぞれを握る分権制が成立したのです。それは全権を握らない支配者という新しい王の誕生でした。それは中世ならではの光景であり、中世二重制の出発点でした。古代国においては権威と権力の両方を一体のものとして握る者が王でした。それは古代と中世を分かつ決定的な違いです。
ところで武家の盟主は封建領主たちの仲間であり、そして代表ですが、実際は彼らを支配する支配者です。例えば、頼朝が封建領主たちに平家を討てと命じると彼らはその命令に従い、命をかけて戦います。さてここに疑問が生じます。それは封建領主たちの不思議な行動です。何故なら、彼らが中世王を選ぶ、そしてその中世王が彼らを厳しく支配するからです。それは一見、皮肉なことに見えます。不思議な展開です。
けれども現代国の我々も同じ事をしています。現代国の国民は国民の合意として憲法を制定する、そしてその憲法が国の支配者となる、法治です。実際、国民は憲法に従って生活しています。現代国の国民も中世の封建領主たちも同じく、自らが選んだものに支配されている。
但し、異なる点は封建領主たちが選んだ者は人間(中世王)でした。それは人治の世界です。一方、現代国の国民の選んだものは法(憲法)でした。それは法治の世界です。それは決定的な違いです。そして人治を廃止し、法治を確立したものが明治維新でした。この革命によって中世王や封建領主は淘汰されて、日本は法が支配者となる法治国となったのです。
古代の支配者、中世の支配者、現代の支配者はこのように本質的に異なった存在です。従って日本の支配者は<古代王――中世王(封建領主)――憲法(国民)>という変遷で示されます。それは支配者が古代王から憲法へと移行するために700年という長期の歳月が費やされたことを意味します。それが中世です。
古代国の王は人です、中世国の王も人です。つまり古代と中世は支配者が人である、そして人が国家を支配するという点において支配体制は<人治>であるといえます。
一方、中世王は封建領主たちの合意の上に初めて存在します。そして現代の支配者である憲法も国民の合意の上に成立します。つまり中世と現代は被治者が支配者を選択するという点で一致しています。どちらも絶対者というべき者が存在しないからです。
すなわち封建領主という支配者は古代と現代の中間の位置に存在する、そして中世は人治を法治に変える過渡時であり、そして同時に古代王を憲法に移行する過渡期です。ですから中世は古代と現代を密接につなぐ歴史の仲介者であり、古代の要素と現代の要素を半分ずつ持った存在です。これは中世の二重性を端的に表現しています。そしてこれは中世の本質的な一面です。中世あって、初めて日本史は成立します。
中世の土地分割
土地の安堵はいつの時代でも必要不可欠なことであり、その者が土地泥棒かどうかを公的に決めます。土地を得ること、あるいは失うことはしばしば生活に、そして生存そのものにさえ影響します。
(飛鳥時代のように)古代王がすべての国土を占有する時代は土地所有の問題は発生しません。しかし中世になりますと状況は一変します。それは荘園制という個人の土地所有を認める土地制度が存在し、それでいて古代王のような、人々の土地所有を決定する絶対者が存在しないからです。
例えば関東の封建領主たちは土地所有の問題を解決するため仲間の一人である頼朝を中世王に選びました。それは誰も侵すことのできない権威の創出です。(因みに現代の日本で土地所有を認定する者は法です、法が裁きます、そして現実的には法務大臣が承認します。)
土地所有認定の大権を与えられたことは中世王にとって名誉なことですが同時に中世王は厳しい義務を負うことになります。それは彼の認定が公正であることです。日々、命の奪い合いを繰り返す封建領主たちにとってみれば恩賞(土地)が公正にもたらされることは当然のことです。そのために中世王を選んだのですから。
権利は義務を伴う。恩賞は現実(戦功や忠誠)によって決まるのです、しかもそれは公正であることが絶対条件です。血縁や縁故などから生じるえこひいきや年齢や地位などの形式によってでもありません。勿論、権力を私的に用いることは許されない。従ってもしも中世王が公正な判断をしないようであれば中世王は中世の鉄則を破った者としてしばしば封建領主によって突き上げられる、あるいは悲惨な最期を遂げました。その一方的な裁定は非難され、撤回を求められる、あるいは王の立場から引きずり降ろされる、あるいは暗殺されます。それは封建領主の持つ<抵抗権>の行使です。この公正な支配は頼朝も秀吉もそして家康も中世王の多くは基本的に支配者の必需品として身につけていました。
尚、古代にも公正さという概念は存在しました。古代王も国内に起こる様々な紛争を解決する際に公正さを求められたはずです。しかし古代王は絶対者であり、一切の義務を負いません。それ故、古代の思想家たちは王に公正さを期待し、王に徳を積むようにと意見しました。何故なら、公正な支配は国民を従順にして、国を安定させるからです。しかしそれに応える王は稀でした。公正であることは古代王にとって本質的に難しい、何故なら、古代国では古代王が絶対権力を握っていた、すなわち古代国には封建領主は存在せず、それ故、抵抗権も存在しません、ですから王権に歯止めをかけるものは何も無く、王権は際限もなく膨らんでいくからです。それは実に名君が輩出されにくい、そして暴君がしばしば出現しやすい環境です。それは21世紀の古代国であるロシアや中国を一見すれば容易に理解されます。
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支配者 |
主権 |
古代 |
古代王 |
絶対王権 |
中世 |
中世王(封建領主) |
王権と領主権 |
現代 |
憲法(国民) |
国民主権 |
中世王の王権、再び
封建領主たちは中世王に国土の分割、分与の大権を与えましたが、さらに彼らは中世王にもう一つの特権を与えていました。それは当然のことですが、中世王が日本を支配する権力です。中世王が日本を支配する権力には三種類、あります。一つは封建領主を支配する権力です、そして一つは日本全体を支配する権力です。そしてもう一つは地方(自国)を統治する権力です。
先ず、最初の権力ですが、それは中世王が封建領主に直接、指揮、命令をするものです。例えば頼朝は関東の封建領主たちに反乱者を捕まえろ、と命じます。あるいは秀吉は封建領主たちに朝鮮を征服するよう命じます。その命令を受け、彼らは反乱を鎮め、そして直ちに海を渡りました。このように中世王は封建領主を顎で使います、それは中世王の特権です。それは一見、古代国の専制政治と同じように見えます、しかしその政治は専制政治ではなかった、それはやはり中世固有の政治でした。何故なら、中世王は封建領主個人を支配しても、彼の領民を支配できないからです。それは領主権の存在です。領主権とは一種の治外法権です。それは封建領主が自国の領民を支配する行政権であり、司法権であり、課税権、徴税権などです。中世王は領主権を尊重し、彼らの領国支配に介入できない、そもそも領主権を与えた者は中世王自身でした。
一方、古代国においてすべての権力は古代王によって掌握されており、分割されていません。貴族たちも王の服従者であり、領主権に相当する抵抗権を持っていません。ですから王の命令は問答無用の命令となり、遮る物は何もなく、理性的なものであれ、感情的なものであれ、国民一人一人に直接、達します。それが専制政治であり、極めて危険な政治です。
国家権力は変質したのです。中世国の国家権力は二分割された、一つは王権であり、そしてもう一つが領主権です。王権は最早、絶対的な権力ではありません-、それは封建領主と対等になったのです。この国家権力の二分割は古代の絶対権力の消滅を意味します。<絶対王権>から<相対王権>への移行です。
中世王は封建領主の権力を認め、最早、それを侵しません。王権の分割は王権の行使に一定の歯止めをかけるという画期的なことであり、専制主義への強力な打撃でした。古代の専制支配はその正当性を失った、そして分権支配が成立したのです。
しかし残念ながら専制主義は強かであり、これによって消滅せず、中世においては時々、その残酷な姿を現し、人々を苦しめました。例えばそれは専制君主のような中世王が時々、現れて領主権を無視し、家臣たちを奴隷扱いしたことです。残念なことですが、中世日本にはそんな時代錯誤の、非情な中世王がわずかでしたが存在した。(本書はそんな中世王を後で紹介します。)その点、専制主義は古代において絶対的なものでしたが、中世においては現れたり、消えたりする中途半端な存在と化したのです。そのため専制主義の完全消滅はもう一度の打撃を必要とした。
それは二回目の打撃であり、中世末期、明治維新において実行されました、革命家たちは王権を分割するのではなく、王権そのものを殲滅したのです。つまり中世王の追放、あるいは殺害です。こうして中世は二度、専制主義を討った、そして最終的に打倒したのです。(二度目の打撃について、そして中世における専制主義が中途半端なものである理由については後で詳述します。)
さて筆者は中世王と封建領主とのこの対等な状態を<二者の平等>と名付けます。平等主義の出現です。そしてこの平等は単に中世の事象を示すものではなく、歴史的な事象でもありました。というのは二者の平等は中世末期に起こった現代化革命を通じてその姿を変え、<万民の平等>へと転じるからです。それは本格的な法治主義の誕生でした。従って平等主義は<古代の不平等―――中世の二者の平等―――現代の万人の平等>へと推移したのです。
尚、留意すべきことですが、王権も領主権も無条件に成立するものではありません、中世には絶対というものは存在しませんから。しかしそれらは一定の条件のもとに初めて成立します。先ず、王権ですが、それは王が封建領主たちの領主権を尊重し、これを侵さず、そして彼らの忠誠や戦功に対し公正な評価をし、適正な恩賞を与えることによって成立します。そうであれば彼らの抵抗権は発生せず、王権は全面的に認められます。
そして一方、領主権は封建領主が中世王に忠節を尽くし、戦役を全うすることによって成立します。そうであれば彼らの領主権は認められ、彼らの領地支配は成立します。これは中世支配の本質です。権利と義務の関係が生じた中世において人々は権利を得るための義務、そして義務を果した後の権利というものを明確に認識していたのです。一方通行の、絶対主義は最早、淘汰されたのです。
この中世王と領主との関係は現代国の憲法と国民との関係と基本的に同じです、憲法は国民が法を順守し、納税などの国民の義務を果たす限り、国民の安全と安心を保証するからです。そして憲法も国土と国民をしっかり保護する内容である限り、国民は憲法を尊重し、修正することはありません。国民と憲法は対等です。
さて中世王の王権には三つの種類がありました。二つ目の権力は中世王が日本全体を包括的に支配する統治権です。大名領国を超えて日本全土に及ぶ事柄、例えば土地制度や税制度、軍事、外交、封建領主の統制などに限り、行使されるものです。目的は全国の秩序の形成と治安の維持です。
頼朝は封建領主同士の土地争いを裁き、彼らの争乱を未然に防ぎます。鎌倉幕府は御成敗式目を定め、武士を統制し、武家社会の秩序を整えます。秀吉は石高制を全大名、全農民に向けて発布し、武家独自の土地制度を確立します。徳川将軍は参勤交代の制度化を通じ武家の主従関係を明確化し、強化する、あるいは異国船打ち払い令を全国の封建領主に向け発布する。これらは領地を安堵する大権でもなく、そして封建領主個人を支配する権力でもありません。
中世王の三つ目の権力は地方統治の権力です。それは例えば徳川将軍家が自らの領国である関東の地だけを支配する特殊な権力です。徳川家は関東の地に生息する武士、農民、町人に対し、日常生活に密着した、こまごまとした政策を施します。この政治は徳川家固有のものですから、他の封建領主は基本的にこれと無縁です。彼らは皆、独自の領国統治をしているのですから。それでも時には徳川の地方政治を参考にすることもあったかもしれません。
以上が中世王の王権です。国土を分割する大権を含めますと四種類となります。それは国家権力が分割された結果です。これに比べますと古代王の王権は単純明快です。古代王の王権は一つの塊であり、分割されていません。ですから王権を拘束するもの、王権を遮るものは何もない。封建領主と領主権は存在しません、それ故国民は抵抗権を持ちません。
従って古代の王権と中世の王権との違いは明らかです。そしてこの違いを象徴的に言えば絶対と相対の違いです。あるいは集中と分割の違いです。あるいは独裁と共同との違いです。この違いをもとに国家(支配者、国家体制、政治形態)の形は分かれていく、そしてそれぞれ固有の国家が形成されていくのです。それが古代国であり、そして中世国です。
頼朝の開発した分権制
分権制について説明します。
分権制は中世の支配主体の一つであり、中世固有の国家体制です。この体制は12世紀、関東の地に誕生しました。当時の関東の地は不穏な状況が続く、無法の地に近いものでした。そこには20数名の有力な封建領主が互いに勢力を競い合っていました。荘園制の下、彼らは土地の開発に精力を注ぎ、あるいは土地の分捕り合いをしていました。しかし彼らにとって本当の強敵は地方役人でした。役人は請負者であり、王朝から地方の管理を請け負っていましたが、私腹を肥やすために権力を乱用し、封建領主たちの土地を適当な口実を設けて横領していたのです。さらに彼らを悩ませていたものは(すでに述べました)クーデターを起こした清盛の縁者たちです、彼らは清盛の権勢を笠に着て増長し、近隣の封建領主たちを圧迫していました。
分権制はそうした混乱の地で開発されました。封建領主たちにとっての一番の問題は関東の地に土地所有を明確に認定する絶対者が存在しなかったことです。彼らは最早、古代王に依存しようとは思いませんでした、何故なら古代王には関東を統治する能力がなかった、むしろ彼の役人たちは横暴であり、彼らを苦しめていたからです。封建領主たちは古代王に見切りをつけて、彼ら独自の支配を模索していたのです。そんな封建領主たちは二つのことを試みました。一つは地方役人に対抗する武力を持つことです、そしてもう一つは土地所有を公認する権威の創出です。この二つは関東の地に秩序を回復するために必要不可欠なものでした。
源頼朝像(神護寺蔵)
封建領主たちは源頼朝を彼らの盟主として選びました、頼朝は高名な軍事貴族の子孫であり、彼の祖父は関東の武士が尊敬する武将でした。頼朝は彼らの代表であり、関東の地の権威となります。彼らは頼朝の下に結集し、主従関係を結び、強力な武士団を形成しました、そして彼らの敵である横暴な地方役人を殺害し、あるいは関東から追放しました。
そして同時に頼朝は彼らの求めに応じ大権をふるい、封建領主たちがそれまで支配していた土地を彼らの所有地として明確に安堵しました。この領地安堵は関東の地において公的なものとなります。ですから誰であろうと彼らの領地を侵犯する者は頼朝と主従関係を結ぶ封建領主たちによって首をはねられました。(主従関係については後で詳述します。)
関東の地はパッチワークの国となりました。頼朝の領地安堵の結果、関東の<土地と領民と権力>は20数名の封建領主たちに分割されたのです。領主たちはそれぞれの領地を所有し、領民を統治し、富を蓄積していきます。これが中世の分割主義であり、分権統治です。頼朝は彼らの盟主であり、彼らを支配しますが、関東のすべての土地を所有したのではありません、彼は鎌倉の地だけを所有し、統治したにすぎません。
中世には<絶対者、中央集権制、専制政治>は存在しない。一人の力ではなく、複数の者たちが信頼をもとにして協力し、支配者層を形成し、支配を行っていたのです。それは中世支配の基本形態です。彼らは西国を治める古代王朝とは一線を画し、東国に武家の国を樹立したのです。それが鎌倉幕府でした。
関東の封建領主たちは都の貴族や有力寺社と違い、特権を持たない、名も無き武士たちです。そんな彼らにとって荘園制の出現は画期的でした、千載一遇の機会でした。自らの土地を持つことが可能となったのであり、それは自立を意味した。古代王や貴族に依存し、服従する、奴隷的な立場からの脱却です。
土地の所有は武士を古代王朝から解放した。彼らは自らの力で生計を立てることが可能となった、最早、古代王や貴族に従属しなくともよいのです。それは日本史上、初めての古代王からの自立でした。そしてこの時、武士は古代の奴隷的な武士とは異なる、自立する中世の武士へと転じたのです。古代武士と中世武士との違いは明記すべき事柄です。
そしてもう一つ重要なことは土地の獲得が自由競争であり、権力や特権に左右されないことでした。それは専制主義の否定であり、実力主義の成立です。武士の精神は躍動し、強靭化した。武士は絶対者の存在しない世界という新鮮な世界に足を踏み入れたのです。
武士は土地の所有を通じて自立する、そして自らを主張しますが、それは同時に彼の競争相手の自立をも認めることでした。<自己を認める>ことは必然的に<他者を認める>ことです。この新しい認識が新しい世界観を創出し、根本から日本の国家体制を大きく作り変えた。それが分権制です。武士は相互信頼の下、権力を分かち合う体制、すなわち中世の国家体制を編み出したのです。
古代から中世へ、そして現代への推移は単に年代順の変化ではありません、あるいは英雄、豪傑が出現したからでもありません。それは人々の精神が強靭化し、歴史が動いたからです。それが日本史を古代、中世、現代の三つの部分に区分する根本の原因です。
但し、精神の強靭化は一瞬の事ではありません。それは数世紀をかけて日本全体に広がっていくものでした。例えば日本の中世化を決定した精神は一部の武士たちにばかりではなく、時代を経るごとに広くそして厚く、すべての地域の武士たちに、そして最終的に農民や町人にまで宿っていきました。そしてそれに伴い、古代の専制主義は段階的に駆逐されていったのです
歴史は大きく回転しました。封建領主たちは最早、独裁者と独裁を許さない。その代わり、彼らは互いを認め合い、関東の土地と民と権力を分かち合った。そしてこの分割を確かなもの、そして持続的なものとするために必要とされたものがすべての者が従う権威であり、すなわち頼朝でした。そして分権制はこの時から700年間、日本の国家体制として存続した、その期間が中世です。
それでも分権制もまた生き物でした。分権制は鮮やかな形で誕生しましたが、しかし700年間、問題もなく存在し続けたのではありません。残念なことですが、分権制は中世において二度ほど、破綻しました。一度目は鎌倉時代の中頃のことであり、そして二度目は室町時代のことでした。それは分権制というものの限界をはっきり示すものでした。
一度目の破綻のきっかっけは元寇でした。鎌倉時代の中頃、元は大軍を擁し、東シナ海を渡り、日本を襲った。当時、武家の盟主であった北条氏は元軍の襲来に備えて国家体制の集権化を急いだ。すなわち国家を一枚岩とし、元の軍を迎え撃とうとしたのです。それは分権制から中央集権制への移行でした。
何故なら分権制の下では国家の戦力も財力もいくつもの封建領国に分散していて、一つのまとまった、総合的な力となり得ないからです。ですから北条氏は封建領主たちの戦力や財力を自らの下に一元化し、巨大な国力を形成しようとしたのです。さらに北条氏は貴族や寺社に対しても武家とともに国家防衛に尽くすよう、資金の提供を要求した。それは国軍や国庫を創設するようなものでした。
その結果、結束を強めた武士たちは奮闘し、短期日のうちに元の軍隊を一蹴した。元は日本侵略に失敗したのです。戦争は瞬時に終結した、そしてそれは北条氏による国家権力の集権化が最早、不要となったことを意味した。
しかし北条氏は集権化の政策を手放そうとはしなかった、むしろ集権化を押し進めた。それはこれまで行ってきた執権政治を廃止して、北条氏の専制政治を確立しようとすることでした。北条氏は古代への回帰を目論み、独裁者になろうとしたのです。しかしそれは時代錯誤の試みでした。
当然のことながら、封建領主や武士は北条氏の専制を拒否した。彼らは中世人であり、自立者であり、すでに自立の素晴らしさに目覚めていた。ですから彼らは北条氏の奴隷にはならず、自分たちの領地、領民、領主権を死守した。それは国家権力をめぐる本質的な対立であり、当然、国内は騒然として、治安は悪化の一途をたどりました。結局、封建領主たちは北条氏を見限り、鎌倉幕府を滅亡へと追い込んでいきました。
鎌倉幕府の滅亡後3年、分権制は足利氏によって再構築されます。足利氏は京都に室町幕府を樹立した、そして中世王として封建領主たちに対し、領地安堵を実施し、彼らの領地と領主権を認めた。それは日本を分権国とすることでした。分権制は関東の地から全国へと速やかに展開していったのです。
しかし分権制は再び、破綻します。その原因はいくつかありますが、主要なものとしては二つあります。一つは室町時代の領主権が未完成なものであったこと、そしてもう一つは領地安堵(領地の分割)が機能しなかったことです。そして根本的な原因は室町時代という時代が中世の急成長時代に当たっていたことでした。
先ず、領主権の未完成についてです。室町時代、全国に守護大名は約30名いました。その結果、国土と国民と国家権力は30の領国と領民と領主権にきれいに分割されるはずでした。しかし実際は違った、それらは30以上に細分化されていた。何故ならそれぞれの領国には守護大名の他に領地と権力を握る者が複数、存在していたからです。
鎌倉時代、地方統治を担っていた者は守護と地頭でした。室町時代、守護は足利将軍によって資金や大権を与えられ、領国内に噴出する数々の紛争を鎮めて、一気に領国の支配者に躍り出た。それは守護大名の誕生でした。
一方、地頭は守護と並び、領国の統治に努めていましたが、実際は自らの管理する荘園を横領し、それなりの勢力を築き、たくましい封建領主に成長していました。けれども彼らは室町幕府から新しい権力を与えられなかった、それ故、多くの地頭は大権を握り、急成長した守護に膝を屈し、心ならずも彼の臣下とならざるを得なかった。しかし元地頭の中には守護大名と対立し、あくまでも一人の封建領主として自立を貫く者もいた。そうした元地頭は守護大名の支配する領国に少なくとも数人はいたのです。
その結果封建領国内の領地と権力(領主権)は守護大名だけが握るのではなく、複数の元地頭も握った。勿論、権力を手放そうとする気弱な封建領主など一人として存在しません、むしろどの封建領主もより大きな領地と権力を手に入れようと虎視眈々とその機会を狙っていた。このような領国内の対立は全国各地で発生し、やがて武力をもって争うようになりました。
守護大名と元地頭たちの闘争はやがて終息します、一人の武将がその領国の領主権を完全に握るのです。その者は戦国大名と呼ばれ、全国には120人ほどいました。彼らは戦略や調略や戦術に秀でた猛者たちでした、そして今日の日本で親しまれ、そして愛されている武将たちです。彼らは領国法を制定し、領民(武士と農民)を統制し、領国の支配を確実なものとします、そしてさらに領国の維持と拡大を目指し、近隣諸国との争いを始めた、それは本格的な戦国時代の始まりでした。
そんな地方の不安定さに拍車をかけたものが足利将軍や有力守護大名でした。彼らの家は皆、ほぼ同時に世襲問題を引き起こした、それは支配者層における激しい武力闘争に発展し、その争いは11年の長さに及び、幕府の全国支配も守護大名たちの領地支配もひどく弱体化することになりました。
足利将軍は封建領主たちを支配する力を失った。全国の戦国大名たちは最早、将軍の領地安堵の指示を信用しません。それは領地安堵という大権が機能しないことであり、武家社会が最早、成立し得ないことを意味した。日本は土地所有の公認が行われない無法の国となった。それは文字通り、分権制の破綻でした。
無法の時代の到来です。各国の戦国大名は自らの武力をもって自国を守らねばならなかった。そしてそれは直ちに全国規模の領地の争奪へ発展した。この群雄割拠は100年続き、日本史上、最大の内乱となった。この時代は戦国時代と呼ばれています。
戦国時代の後に桃山時代が訪れます。桃山時代は戦乱の終息した、平和の時代です。地方も中央もようやく秩序を取り戻しました。それは日本の統一でした。それを成し遂げた者が豊臣秀吉という戦国大名です。彼は多くの戦を通じて全国の戦国大名を制圧し、あるいは彼らと妥協を重ね、彼らを従えることに成功した。
秀吉が新しい中世王です。彼は大阪に城を築き、豊臣政権を樹立した。そして大権をふるい、領地安堵を実施し、国土、国民、そして国家権力を封建領主たちに分与した。それは分権制の見事な復活でした。しかし彼は中央集権国を樹立しようとはしなかった。恐らく彼はそんなことを夢想すらしなかった。彼もまた生粋の中世人でした。
秀吉は革命家ではなかった。日本を統一しても彼は依然として分権制を布いて、領主権を誠実に認めていた。誰も日本全土を専有する者はいません。秀吉は国土の一部である近畿地方を所有しただけでした。その他の国土は封建領主たちによって分割されていた。彼は封建領主の領国経営に介入しません、彼らの徴税権を奪うこともない、そして彼らの設定した領国法に口をはさむこともしません。
注意すべきことですが、日本統一と日本の中央集権化とは全く異なるものです。日本を中央集権化した者は明治維新を断行した下級武士たちです。彼らが分権制を廃止し、中世を終わらせた真の革命家です。
17世紀初め、秀吉の短い統治は終わります。そして彼の後を継いで新しい中世王となったものは徳川家康でした。彼は江戸に彼の幕府を樹立し、国土を260に分割し、それぞれを260名の封建領主たちに与えました。こうして日本国土は頼朝以来、700年間にわたり、分割を繰り返したのです。それは分割統治の深化でした。
徳川将軍は国内の治安維持に尽くしました。260名の封建領主たちも領国の安定に努め、そして領国経営を近隣諸国と競い合い、独自の産業や文化を発展させた。その結果、日本国土は文字どおり、すみずみまで開発され、国力は高まりました。江戸時代は平和な時代であり、270年間、続きました。(ドイツ人の医師、植物学者のケンぺルが日本を訪れたのはこの頃です。)
江戸時代の日本はいわば260の異なる国から成る連邦国のようでした。それは国内に260の独立した行政機関や司法機関が機能し、260の戦闘能力抜群の常備軍が整い、260の異なる経済政策が施行され、260種類の特産物、郷土料理、学問所、酒、祭りなどが誕生したのです。17世紀の世界においてこのような活気ある、多様性のある社会を持ち、強固な軍事力を備えた国は世界にどれほど存在したでしょうか。
日本が今日、観光大国となっている理由はまさに分権制のおかげです。そして江戸時代の平和のおかげです。現代日本には古代の貴族文化や寺院建築だけではなく、全国の町や村に鎌倉時代以来の個性的な中世の産業、伝統、文化が消滅することなく、今もなお多数存在しています。特に江戸時代には<町人文化>が豊かに育ちました、例えば、歌舞伎、浮世絵、着物、俳句、相撲、旅行、そしてファストフードなどです。その多くは今日、世界に誇るべきものとなっています。その点、日本は世界からの旅行者にとって見飽きることのない国となっています。
一方、古代国の観光事業はささやかであり、古代国は観光小国といえます。というのは古代国には見るべきところがあまりないのです。強いて言えばその国の都だけです。そこには多くの場合、古代王の豪華な王宮と荘厳な宗教建築物があります。(日本でいえば京都です)しかし彼らの地方は寂しく、貧しい。そこには固有の伝統や文化や産業が育ちませんでした。―――但し、天然自然の名所は別ですが。
何故なら古代国は古代の中央集権国だからです。中世に進まなかったから国土は分割されず、封建領主は存在しない。その地は基本的に古代王のものであり、従ってその地に赴任した地方長官はその地に愛着を覚えません。地方長官のすることは税を収奪し、巨万の富を築くことだけです。そして数年の任期を終えるや否や、都に帰ってしまいます。
ですから古代国の地方は哀れです。人々は農奴として扱われ、酷使される。古代国にあって栄えたものは古代王の都だけです。この残酷さといびつさは古代国の一大特徴であり、その支配形態から生ずる必然です。従って古代国は一点豪華主義の観光小国といえます。
<画像をクリックすると大きく見えます。>
寺子屋は浪人とその妻が講師となり、町人の子弟に読み,書き、計算を教えた学問所。江戸には約、大小1000軒の寺子屋がありました。
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貸本屋を営む商人が貸本問屋を訪れて、町人や農民に貸し出す本を仕入れている図。貸し出された本は歴史物、仏書, 絵本、儒書、軍記、医書、そして小説などです。江戸時代末期には江戸に約、800の貸本屋がありました。
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越後屋店頭、江戸の代表的な呉服店で着物の生地を販売した 現金売りを始め、繁盛した。
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毎年、全国各地で収穫された米は陸路や海路で運ばれ、大阪に集められます。そしてこの市場において世界で初めての先物取引が行われました。多くの大名は財政の安定化を求めて積極的にこの先物取引に参加しました。
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18世紀の初め、徳川将軍が町人のために江戸の郊外に桜の木をたくさん植えて、花見の一大行楽地とした。今日、日本の春は桜の美しい花々で埋まります。
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江戸時代、農民や町人にとって大旅行であり、2~3か月を要する、そしてそのために彼らは積み立てをして数名がその村あるいはその町の代表として伊勢神宮をお参りした。それは神社への参拝であったが、実際は旅行自体を楽しむことが目的でした。そうした旅行熱の高まりから旅行ガイドブックや数々の旅行グッズが生まれました。
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しかし日本はやがて大きな挫折を経験します。江戸時代末期、日本は惨めでした。日本は弱小国に転落していたからです。19世紀、西欧諸国が日本に進出した時、日本は最早、後進国でした。大きく遅れをとり、行政や司法や外交や武器や医学や科学技術など多くの分野で落伍者となっていました。
日本の発展を遮ったものは皮肉なことですが、江戸時代の長期にわたる平和でした。江戸時代、日本は歩くこともなく、走ることもなく、寝そべって長期の休息をのほほんととっていたからです。激しい競争の無い平和な世界は推進力を失い、自然に停滞するものです。そして日本の周辺国は皆、古代国でした、彼らもまた鎖国を実践して、他国と積極的に交流せず、従って東アジアは平和でした。
一方、中世西欧はその歴史のほとんどが戦争の連続でした。長い戦と短い平和の繰り返しです。その点、西欧の中世史全体が彼らの戦国時代といえます。中世王と封建領主との争い、封建領主同志の争い、封建領主と農民との争い、王朝内の内紛、中世王とローマ教皇との対立、十字軍の遠征、黒死病の大流行、近隣諸国との戦争、宗教改革から発する多国間戦争、そして最終的な内乱である現代化革命など中世西欧はほぼ休みなく戦いを続けていたのです。
この長期間の戦乱は西欧人を鍛えました、彼らは武器や戦術を大きく進化させたばかりではなく、現実主義を確立した。それは現実政治から形式主義、権威、前例、宗教勢力などを除去することでした。物事は率直に、冷徹に、そして合理的に考察されるようになったのです。それは不条理な形式主義と衰弱した現実主義が日本を覆っていた江戸時代と対照的でした。
19世紀、そんな西欧列強が平和な日本に進出してきました。日本は驚きあわてふためきます。この危機に際し、西国の下級武士たちは立ち上がり、既存の体制に背を向けて、これからの日本の針路を追求しました。彼らの先ず実施したことは分権制の廃止でした。それは600年前、北条氏が元寇に際し、試みたことと基本的に同じです。他国との厳しい対立や戦争は必然的に国家の体制を中央集権化します。しかし今回の分権制の廃止は徹底していた。
革命家たちは封建領主の持っていた領地、領民、領主権をすべて取り上げ、それらを東京に集めました。版籍奉還と廃藩置県の断行です。それは日本を中央集権国とすることであり、国家の意志と力を一元化し、西欧列強に対峙することでした。国軍と国庫の本格的な創設です。日本を700年間、支えた分権制はここに消滅したのです。
明治維新の革命家たちは北条氏と異なっていた。彼らは現代化革命の革命家であり、古代の中央集権制を目指さず、しかし現代の中央集権制を目指しました。つまり国家権力は一元化しますが、それは古代王一人が握るのではなく、国民が握る主権在民でした。
革命家は中世王(徳川)とすべての封建領主を一掃し、新しい支配者として憲法を据えました。そして江戸時代に行われていた老中政治を取りやめ、民主政治を導入しました。その時、<憲法、中央集権制、民主政治>という現代の支配主体が揃い、成立したのです。中世を滅ぼし、そして現代を確立するという現代化革命の遂行でした。そして今日の日本はこの延長上にあります。
従って日本史は古代―中世―現代の変遷であらわされます。日本の歴史は段階的に進展していった、合理的で美しい進化です。中世は直接、現代へと連続していったのです。
封建領主の主従政治
中世の支配主体の説明を続けます。それは主従政治についてです。
中世固有の政治は頼朝や家康など幕府の創立者の去った後に現れる政治です。権威ある創立者を失った幕府は支配の指針というべきものを模索します。そして幕府は一時期、混乱します、というのは支配の主導権をめぐり、有力領主たちが対立を始め、激しく争うようになるからです。主従政治はそんな状況に陥ることが無いように編み出された中世独自の政治でした、そしてそれは分権統治の本来の政治でした。
さて封建領主たちは個人的に自立を果しました、それは頼朝によって領地を与えられ、そして領主権を認められたからです。それは彼らが切実に求めた結果、手に入れたものでした。
そして次に彼らが求めたものが関東国の自立です。何故なら彼らの個人的な自立は関東国の安定があって初めて成立するものだからです。
その時、彼らの求めたものが関東における規律であり、秩序です、そしてそのために必要とされたものが幕府です。幕府は様々な法や制度や組織を決定し、関東国の秩序を形成する。そしてそこで行われたものが中世の政治であり、それが主従政治です。
本来であれば中世の政治は封建領主が皆、一堂に集まって、政策を検討し、決定することでした。しかし20数名の封建領主が事あるたびに寄り集まり、政策をめぐり、討論することは理想ですが、現実には難しい。中には鎌倉まで来るのに1日かかる者もいましたし、特別の用事のため来られない者もいた。
従って実際は中世王が封建領主たちの中から政治を専門に担当する者を数人、選んだ。そして中世王とその封建領主たちが実際の政治を取り仕切った。それが主従政治です。それは現代の民主国で行われている間接民主制の中世版です。
主従政治は共同政治です、しかしそれは古代王一人が取り仕切る独裁政治ではありません。中世王は最終的に政策を決定しますが、その決定は封建領主たちの同意のうえで決められた、あるいは封建領主たちが決定したことを中世王が追認した。中世王と封建領主とは絶対権力を認めず、権力を分かち合い、そして権力を共同で行使したのです。(中世においても独裁者を気取り、専制政治を行った中世王は例外的に存在しました。それについては後で説明します。)
主従政治は時代によって呼び名が変わりました。鎌倉時代の主従政治は執権政治と呼ばれます、室町時代の主従政治は管領政治と呼ばれ、そして江戸時代の主従政治は老中政治と呼ばれます。この三つの政治はそれぞれ内容に特色があり、ある程度の違いはありますが、いずれも封建領主の代表たちが中世王の下において会議を開き、彼らの合意を形成する、そして様々な政策を実施し、国を運営するものでした。
そして彼らは(すでに述べましたが)四つの事柄を対象として政治を行いました。一つは領地安堵です、一つは封建領主個人を支配する、一つは国全体を包括的に統治する、そして最後は自らの領国を支配する地方政治です。
この政治形態の連続は中世王と封建領主たちが専制政治を過去のものとして放棄し、そして主従政治こそ中世固有の政治であるということを認めていたことを示しています。それは世界観の転換でした。
<日本史における政治体制の推移>
|
古代国 |
中世国 |
支配主体 |
専制政治(独裁政治) |
主従政治(共同政治) |
支配手段 |
親政、摂政、院政 |
執権、管領、老中政治 |
※中世論の一つは中世が院政の開始から始まったという見解を示していますが、それは誤りです。上記に見られるように 院政は古代の支配手段であり、しかし歴史を画期する支配主体ではありません。それは専制政治の一つであり、親政や摂政と同じく、古代国の専制支配を支える政治にすぎない。
さらに言えば政治家の数の歴史的な推移です。古代の政治家は古代王一人です、中世の政治家は数名から十数名です、そして現代の政治家(民主国における政治家)は数百名です。それは1~10~100の推移です。それは国家権力の段階的な分割を示し、平等主義の発展を如実に物語っています。
現代国は民主政治を実施しています。民主政治は人類の到達した最後の政治形態であり、そして最高のものです。欠点はいろいろあるでしょう、それでも専制政治や主従政治に比べればはるかに優れています。日本人は確かに夢の一つを叶えたのです。
中央政府と主従政府
明治維新は江戸時代の日本が分権国であったからこそ成立したのです。もしも江戸時代が中央集権制であったなら革命は成立しません。何故ならそれは中央集権国がもう一つの中央集権国へ移行するだけですから。それはロシアや中国などの古代国の歴史です。
従って江戸時代の日本は国旗、国歌、国庫を持っていませんでした。しかしそれらは現代の中央集権国が有するものです。例えば徳川将軍家の旗はあくまでも徳川家の旗であって、国旗ではない。そして260名の封建領主もそれぞれ家の旗を持っていました、つまり当時の日本には260の家旗があったのです。日本に国旗や国歌や国庫が誕生するのは現代化革命によって中央集権制が確立した明治時代からです。例えば国歌である君が代は1893年に日本史上、初めて使用され、そして1930年に正式に国歌として定着しました。
ところで明治維新の革命家たちは東京に臨時政府を開きます。それはまもなく現代日本の<中央政府>となるものです。中央政府とは文字通り、日本国の中心を示し、日本の国土、国民、国家権力(軍事、立法、行政、司法、課税、徴税など)をすべて掌握し、日本を一元的に支配する政府です。
一方、中世の幕府は<主従政府>です。例えば江戸幕府は将軍と封建領主たちとが共同で政治を執行する場、つまり主従の政府でした。それは中央政府とは言えません。鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も国土、国民、国家権力を一手に握る政府ではなかった。例えば江戸幕府の財源は関東の地から徴収する税を基本とします、つまり徳川家の財源です。それは国庫とは言えません。国家の税は260人の封建領主たちに明確に分割されていたのです。
これは単に言葉の問題ではありません、しかし中世の根幹についてのお話です。江戸幕府を中央政府と呼ぶことは大きな間違いです。それを中央政府と呼ぶことは国家体制というものを真に理解していないことを暴露する。今日の歴史教科書や多くの歴史書は江戸幕府を中央政府と記述していますが、それは誤りであり、速やかに訂正されるべきです。そして主従政府と中央政府の相違を子供たちや読者に精確に説明すべきです。
主従政治も主従政府も筆者の造語です。何故なら、今までそれらを指し示す言葉は存在しなかったからです。それはこれまで中世日本の歴史があいまいに、そして多くの点で誤って理解されていたからです。
中世化革命という革命
今日、中世化革命という言葉は存在しません。日本史にも世界史にも存在しない。それは筆者の造語ですから。そして筆者は中世化革命という言葉を現代化革命の対語として造りました。つまり人類の歴史は、特に日本と西欧の歴史はこの二つの革命を通過して発展してきたのです。
日本史における中世化革命は武家が古代王朝を打倒し、古代の支配主体を駆逐する、そして中世の支配主体を導入し、新体制である武家政権を樹立する革命です。それは頼朝から秀吉までの約400年の歳月をかけた武力革命であり、ほぼ二都時代に重なります。
下記の表(ひょう)は支配主体の変遷を示したものです。歴史の交代とは支配主体の交代です。そして革命の半分は旧体制を倒すこと、そして残りの半分は新体制を樹立することでした。
<国家体制の進化>
|
古代日本 |
中世日本 |
現代日本 |
支配者 |
古代王 |
中世王(封建領主) |
憲法(国民) |
国家体制 |
中央集権制 |
分権制 |
中央集権制 |
政治形態 |
専制政治 |
主従政治 |
民主政治 |
※中世化革命は古代日本を中世化する革命です
※現代化革命は中世日本を現代化する革命です
中世化革命は基本的に人々の精神の強靭化から発したものです。12世紀、武士は農地の開拓と所有に熱中します、そして土地の自己所有を通じて相対主義の思想、他者を認める思想を身につける。それは専制主義の否定と専制主義からの脱却を武士に促すものであり、彼らの世界観を一変させるものでした。そして実際、武士はその思想をもとにたくましく成長し、中世の核心である分割主義や(後で説明しますが)双務契約を開発します。それは最終的に古代王朝を打倒する中世化革命として結実し、日本は中世国として確立しました。
世界の中で中世化革命を断行した国は日本のみです。武士は400年をかけて古代王朝を武力で打倒し、古代を淘汰しました。西欧諸国も中世に進んだ国ですが、西欧諸国は古代王朝を倒さなかった、何故なら、すでに述べましたが、彼らの古代国は自滅していたからです。騎士や封建領主は古代国の崩壊後、目の前に広がる土地の開発、所有にしのぎを削った。そして彼らもその競争の中から他者を認める思想を身につけていきました。それはやがて分割主義や双務契約の開発につながり、西欧を中世世界に創りかえていった。それは古代から中世への明確な進化でした。
一方、ロシアや中国などの古代国には中世化革命は起こらなかった。彼らも革命を起こしたと主張しますが、それは新旧の古代王朝が入れ替わるだけのことでした。新しい王朝もまた古代国なのです。彼らの革命には武士や騎士は誕生せず、専制主義を打倒する勢力は現れない。そして精神の強靭化は起きず、それ故、分割主義も双務契約も開発されなかった。従って彼らの国は依然として専制国であり、古代は中世へと進化しませんでした。ですから(日本史でいえば)これらの国は平安時代で止まっているようなものです、鎌倉時代へと移行していないのですから。
さて興味あることですが、頼朝や秀吉は中世化革命を認識していなかったことです。彼らはそんな革命など知りません。ですからそれを完成させようとも思っていなかった。にもかかわらず、彼らはそろって国土を分割し、国民を分割し、国家権力を分割し、数世紀にわたり、分割主義を貫いていったのです。彼らはただ目の前に現れる紛争や事件や事故に懸命に対処していただけなのですが。
その点、歴史には一つの、確とした、不動の意志が働いている、そんな風に思えてしまいます。中世王も名も無き人々も<歴史の意志>に従順に従っていたのです。それではそれは何かといえば専制主義への強い拒否です、そして相対主義への信頼です。それは人々の精神の強靭化です。そしてそれが中世化革命の精神です。頼朝も秀吉も歴史の掌の上で分割主義という踊りを華麗に踊った踊り子たちであったといえます。
さて日本史にはもう一つの革命がありました。それは現代化革命です。日本を現代化する革命です。この革命は中世の支配主体を粉砕し、そして現代の支配主体を確立した革命です。従って日本は三つの歴史と二つの革命を持つ国といえます。