秀吉の石高制
今日の歴史家の方々は残念なことですが、日本史を四つに区切っています。それは古代―中世―近世―現代という四区分であり、歴史教科書や多くの歴史書に当然のように述べられています。<近世>the early modern period が中世と現代の間に無理やり挿入されている。そしてこの歴史区分は今日の日本において常識となっています。しかも四つの歴史区分は日本史においてだけではなく、西欧史においても主張されています。
しかし四つの歴史区分は誤りです。この誤りは彼らが中世の本質を精確に把握せず、そして歴史の進化を理解していないためです。この歴史観は日本史や西欧史を曲解し、合理的な史的進化の姿をひどく傷つけています。何故なら、近世は中世に含まれる一時代でしかなく、一つの自立した歴史とは言えないからです。従って近世史というものは歴史から削除されるべきものです。
歴史の三区分と四区分の違いは単に歴史学の問題ではなく、人類にとって本質的な問題なのです。何故なら、三区分は歴史の進化を明らかにして、歴史の精確な理解を促すと同時に(第3章で述べますが)今日の世界における民主国と専制国との二極の対立の根源的な原因を突き止める、そしてそれ故、二極化の解消にそれなりの働きをするからです。しかし四区分には現代の問題点を指摘する力はありません。
今日、有名な中世日本論として中世800年説、500年説、そして400年説があります。それらは中世日本がいつから始まり、いつに終わったのかを説明し、中世を定義するものです。しかし三つとも重要な誤りを犯しています。この三つに共通することは中世を二つに分断し、その後半部分を日本史から削除してしまったことです。そしてその消えた部分を埋めるものとして近世という歴史をひねり出した。 実際、日本の歴史年表には室町時代の終わりに一本の縦線が引かれ、中世の終わりが示されています、そしてその先は近世の始まりとなっています。その結果、日本史は四つに区分されたのです。この愚行は西欧の歴史においても当てはまります。
それでは何故、研究者の方々はこのように中世を中途で切断してしまったのでしょうか。この誤りを招いた根拠の一つが石高制でした。それは日本を統一した秀吉が定めた新しい土地制度、税制度です。12世紀以来、武士は貴族の所有する荘園を侵し続け、年貢を横領し、そして16世紀、すべての荘園を奪い取った。従って、その時、古代王朝の土地制度と税制度は消滅したわけで、それ故、武士は新たな土地制度、税制度を編み出すことになります。それが石高制でした。武士が初めて定めた土地制度、税制度です。
研究者の方々は石高制に注目し、この出現をもって歴史を区分しました。彼らは土地制度と税制度を重視し、その変化を歴史区分のきっかけと考えたのです、荘園制が崩壊した、だから中世は終わった、そして石高制が成立した、だから近世が始まった、と。
しかしそれは実に短絡的で、表面的な区分でした。何故なら歴史は支配主体をもって区分されるべきものだからです。土地や税の制度は支配手段であり、古代においても中世においても支配者の都合で幾度も変化するものです。つまりそれらは時代を区別するきっかけとなるかもしれません、しかし歴史を区分する基準とはなりえない。その結果、中世史の持つ一貫性も、そして歴史の合理的な進化の姿も失われたのです。
これからこの中世室町時代死亡説と近世桃山時代誕生説を否定します。石高制は単なる土地制度、税制度であり、当時の社会を変えただけの制度であり、しかし国家を変革したものではない、つまり歴史を画するものではないことを証明します。
豊臣秀吉像(狩野光信画)
秀吉は全国の土地を測量し、それぞれの田における米の生産高を求め、それをもとに税を決めました。そして農民一人一人に特定の農地を与えました。農民はその農地で農業に励み、それなりの富を蓄積し、そしてその中から年貢を毎年、封建領主に納めます。さらに秀吉は年貢を納める農民と年貢を受け取る封建領主とを直接、結びつけました。つまり農民と荘園領主との間に介在していた悪質な中間搾取者が排除されたのです。それ故、納税方法は簡素化、透明化されて桃山時代以降の納税を巡る紛争は激減しました。このような全国的な検地も新しい税制度も秀吉の強権のなせる業です。秀吉以外の者にそんな大胆なことはできません。秀吉は強者です。
それまではごくわずかな農民だけが土地を所有し、富裕農民となっていました、しかし多くの農民は土地を所有していませんでした。彼らは荘園の耕作者として荘園領主にその労働力を提供し、奴隷のようにかろうじて生きてきたのです。秀吉の政策は多くの農民を荘園制から解放し、土地所有者とした、そしてその結果、農民はその労働力を自らのために使用できるようになりました。それは農民の自立でした。
それでは決定的なことをお話します。それは石高制を制度化した秀吉はだからと言って全国の税を独り占めしたのではない、ということです。土地制度は変わっても秀吉は依然として自分の領国である近畿地方の田から上がる税をのみ徴収しました。秀吉は徴税権を独占したのではありません、しかし当時、徴税権は200名以上の封建領主に分与されていたのです。彼は領主権を尊重する中世王でした。秀吉は封建領主たちの税を横領しない、彼らの領地経営に介入しません。いかに強権をふるっても彼は古代王とならず、古代に回帰するようなことはしませんでした。つまり桃山時代の日本は依然として分権国であり、中世でした。
<土地、税制度の変革>と<国家統治の変革>とは別物です。中世の国家体制を変えた人物は19世紀の明治維新の革命家たちです。彼らは廃藩置県を断行し、領国制を廃止し、東京にすべての国家権力を集中しました。それは中央集権制の成立でした。その時が中世の死亡時です。ですから中世は室町時代で死亡したのではありません。中世は室町時代から桃山時代、そして江戸時代へと続いていったのです。その点、桃山時代から近世が始まったとする既存の三つの中世日本論は明らかに間違っています。
土地、税制度が荘園制であろうと、石高制であろうとそんなことは国家支配の変革に何の影響も与えない。中世論の研究者は二つの点で過ちを犯していました。一つは強権と集権との混同です。強権とは権力の強弱であり、しかし集権とは国家体制の在り方です。この二つは全く次元の違う概念です。
秀吉はその強権を土地制度、税制度の変更に用いました、しかし彼は国家体制の変更のために使ったのではありません。彼は頼朝以来の分権制に従っていた、しかし分権制を廃止することも中央集権制を確立することもしませんでした。つまり決定的なことですが、秀吉の強権は集権に連続しないのです。日本は依然として分権国でした、そして彼は中世王であり、専制君主ではなかった。研究者の方々は秀吉の強権に幻惑されて、強権を集権と短絡的に結び付けてしまった。
もう一つの原因は支配主体と支配手段との混同です。彼らはこの二つを区別しません、というのは二つの違いに無関心、あるいは無知であるからです。支配主体という概念はこれまで存在しませんでした。ですから支配主体と支配手段はごちゃまぜにされています。そのため彼らは支配手段である石高制に依存して歴史を区分してしまった。しかし石高制は社会変化をもたらしたにすぎません。
秀吉は革命家ではなかった、そして彼の日本統一も革命ではなかった。桃山時代は中世に属す一つの時代です。しかし歴史学者の皆さんは秀吉の日本統一を国家の中央集権化と見誤り、桃山時代の日本を中央集権国と錯覚した。そして日本史を4分割するという日本史の捏造に突き進んだ。
この誤りは西欧史においても同じように認められます。西欧史にも近世the early modern periodという歴史が唱えられ、中世と現代との間に挿入されています。一般的に近世西欧は15世紀から18世紀までの約、300年間とされています。(近世日本は16世紀から19世紀までとされています。)しかし日本史における近世が偽物であったように西欧史における近世もまたまがい物といえます。それも歴史の捏造です。
例えば中世フランスです。17世紀後半から18世紀初めにかけてルイ14世は中世フランスの国王として強権をふるいました。彼は太陽王と呼ばれ、彼の時代は絶対王政の時代として知られています。ルイ14世はベルサイユ宮殿を造営し、王権を飾り立て、国の内外に彼の絶対性を誇示しました。彼はまるで専制君主のようであり、国家のすべてを掌握しているように見え、実際、彼は封建領主の領主権を脅かしました。彼らの領国に役人を送り込み、彼らの領地支配にあえて干渉しました。つまり彼は封建領主の弱体化を進め、王権の強化を図っていたのです。
その結果、歴史研究者の方々はルイ14世が専制君主であり、フランスが中央集権国であり、そしてそれまでの分権体制が消滅したと考えたのです。それほど強く彼の強権に幻惑された、そしてその結果、絶対王政という用語をひねり出してしまったのです。ルイ14世へのこの過大な評価は秀吉に対する過大な評価を想起させます。しかし歴史事実は違います。ブルボン王家は確かにフランスの中央集権化を模索しました。役人を中央から封建領国に派遣し、封建領主を牽制し、領主権に介入しようとしました。しかしそれは何を意味するのかといえばフランスは依然として分権国であること、そして封建領主が領主権を堅持していることを表しています。つまりフランスは分権国であった、ルイ14世は絶対君主ではなかった、だからこそ彼はフランスの中央集権化を画策したのです。従って絶対王政などという用語は不正確なものであり、そんなものは存在しなかったのです。
フランス革命はバスティーユ牢獄襲撃事件(1789年7月)から始まりました。
(ジャン=ピエール・ウーエル画)
それでは何故、ルイ14世は封建領主たちを敵に回す、そんな危険な政策を推し進めようとしたのか。それはブルボン王家が財政の危機に直面していたからです。ルイ14世は近隣諸国と戦争を繰り返し、膨大な戦費に苦悩していました。王は長い間、農民たちを圧迫し、過酷な税の取り立てを行っていた。しかし農民からの税だけでは戦争を遂行することができません。そのため危険を承知で封建領主たちの懐に手を突っ込もうと覚悟したのです。領主権への挑戦です。そしてこの思いはルイ16世の統治下で具体的な政策となりました。それは封建領主から免税権を剥奪すること、そして彼らから税を取り立てることでした。しかし免税権は封建領主が成り立つための生命線です。彼らがそれを手放すはずはありません。
封建領主は戦役という王に対する契約義務を負っています。それ故、王は封建領主に対し、特権を与え、数世紀にわたり免税権を与えてきたのです。それまで王は戦役を騎士(封建領主)の義務とし、そして納税を農民の義務としてきました。しかしルイ16世は封建領主に対し、戦役も納税も両方すべきであると通告してきたのです。当然、封建領主たちは怒ります、免税権こそ封建領主の証です。もしそれが無くなるのなら戦役という義務も消えることになる。何故なら<保護あっての戦役>ですから。王が封建領主に対し、何の保護も与えないのなら戦役も消えることになります。王一人が敵と戦うのです。それでよいのか、と封建領主は王に問います。免税権の撤廃は封建領主という存在、そして中世の基盤そのものが消滅することでした。
当然のことですが、ルイ16世は封建領主たちの強い抵抗にあい、結局この政策を撤回することになります。それでもルイ16世は国民から税を奪取することに執着し続けた。そして王は第2の標的として都市の有力商人を選びました。王は彼らから資金を収奪しようと新たな政策を発布する。それもまた王が特権者の持つ特権を奪おうとすることでした。後で詳述しますが、フランスの中世王は数世紀にわたり、国内の有力都市に自治を認めていました。そしてその見返りに都市は王に商業税や兵士を提供していました。ギブアンドテイクです。ですから都市民は封建領主と同じく、特権者であり、王から免税権を得ていました。にもかかわらず今回、王はその特権を無視して、都市の有力商人から資金を巻き上げようとしたのです。それは契約違反であり、二重課税です。勿論、彼らも猛反対しました。
王は恥も外聞もかなぐり捨てて、資金を得ようと死に物狂いでした。それは税制の中央集権化であり、そして分権制の破壊でした。しかし封建領主と有力商人は王とともに中世国の支配者層を形成してきた仲間です。王はそんな彼らを足蹴にした、それは王が自らの足を食べようとしたことに等しい。
王の裏切りは結果として支配者層の分裂をもたらし、彼らの結束力を弱体化させた、一方、それは逆に農民と市民との結束を促し、反体制の勢力を形成した。この国家レベルの変化は革命を成功させる重要な要件でした。その点、王こそフランス革命に火をつけ、中世フランスを破壊した張本人といえます。従って中世王が中央集権制を目論むという行為は歴史の矛盾です。つまり絶対王政は矛盾です。そして実際、歴史は古代支配への回帰を許さなかった。
財政難のルイ16世は立ち止まることもできず、そうかといって前に進むこともできなかった。立ち止まること(特権者の免税権を従来通り認めること)は財政破綻を招き、フランスの敗戦と内乱を招きます。一方、前進(免税権の撤廃)は支配者層の対立を生み、やがて王の自滅をもたらします。つまり彼にとって逃げ道はどこにも無かった。フランスは中世を極限まで追い詰めた。絶対王政という時代は中世末期を指すのであり、現代にいたる最後の一里塚であった。
ですから絶対王政という時代は見掛け倒しであり、中身が詰まっていない。ルイ14世は全権力を握る古代王ではないのです。そして絶対王政という名称は誤りです。それは相対王政というべきものであり、中世の支配体制です。中世は自ら中世を乗り越えられないのです。中世を乗り越えるものは現代です。現代が分権制を否定し、中央集権制をもたらすのです。中世を裏切ろうとした王は逆に中世によって消されたのです。
ルイ14世もルイ16世も依然として中世王であり、専制君主ではなかった、強権を持ってはいたが、それは国家権力のすべてを掌握するほど絶対的なものではなかった。ですから絶対王政という時代は存在しません、そしてそれ故、近世という時代も成立しない。
ルイ14世も秀吉も強権を発揮した。秀吉はその強力な権力をもって土地の制度を変革しました、しかし中世の国家体制を変えようとはしなかった。彼は依然として封建領主たちの徴税権を認め、分権制を維持していました。日本において中世が崩壊するのはその時から300年後の明治維新のことでした。一方、ルイ14世は諸制度の変革にとどまらず、分権制を廃止し、中央集権化を図ったのです。それは分権制と中央集権制との不可避の対立を生み、革命の原点となった。
そして特筆すべきことは人々の精神が絶対王政によって強靭化したことです。人々は怒りをもってルイ王家による専制政治を拒否した、そして今回は単なる王権の分割ではなく、その廃絶を明確に目指した。実際、人々はかつて恐れ、あるいは時には尊敬さえした王や封建領主をためらいもなく殺害し、あるいは国外へ追放した。人々は世界観を一変したのです。それは人治を根絶することであり、法治を確立することでした。国家の支配者は法であるべきとする思想は人類史上、画期的なことでした。
その時、古代から度々、人々を苦しめてきた専制主義はようやくその息の根を止めた。その結果、専制政治も主従政治も消滅し、民主政治が成立しました、それは中世の崩壊、そして現代の始まりでした。これが人類史上、二度目の精神の強靭化です。フランス革命はやがて西欧諸国と日本に波及した、そして彼らも中世王と封建体制を排除し、国家の現代化に取り掛かった。その点、フランス革命は革命の中の革命であったといえます。
人類は2000年に及ぶ専制主義との壮絶な戦いの果てにとうとう彼らの夢をつかんだ。それは人々が専制主義から解放されるという夢です、人治を廃止し、法治を成立させるという夢です、平等と自由をつかむという夢です、そして自分たちを支配する者は自分たちであるという夢です。それは歴史の偉大な進化でした。
ルイ16世が公開処刑されたことは有名です。そしてフランス革命は恐怖政治の連続となり、百万人の国民が命を落としたこともまた有名です。それは歴史の実相です。フランス革命の革命家たちは廃藩置県を断行し、封建領主たちの握っていた立法権、行政権、課税権などをすべて取り上げて、パリの中央政府の下に集中しました、国家権力の一元化です。
そして革命に終止符を打ったナポレオンはナポレオン法典を国家法として制定しました。それまでフランス国内で使用されてきた封建領国法や宗教界や商業界で慣習的に使用されてきた諸々の法はすべて廃止されました。それはフランスの法の一元化です。そして国民は法の下、平等になりました。現代国の原型が確立したのです。
さて中世は現代化革命によって終わりを迎えました。中世の支配主体である中世王や分権制が消滅したのです、そしてその後に現代の支配主体である憲法が制定され、そして中央集権制が布かれました。すなわち中世の後に直接、続く歴史は現代です。しかしそれは近世という歴史ではありません、近世は一つの歴史ではなく、一つの時代でしかない、それは中世の後半部あるいは末期を指し示す時代です。従って日本史の四分割は廃止されるべきです。
さて分権支配の消滅について次のようにまとめることができます。それは破綻の原因が支配者層内部の観点から三つの型に分けられるということです。
一つは 王>封建領主たち の場合です。それは中世王の王権が強く、封建領主の権力が弱い場合であり、国家体制(分権制)の弱体化が進み、中央集権体制が成立するような錯覚をもたらします。そんな事例は例えば上記に挙げた秀吉やルイ14世の体制です。そしてその錯覚は絶対王政という用語を生み出し、中世を無理やり破綻させ、そして近世というあり得ない歴史をひねり出しました。歴史の捏造が最も生じやすい場合といえます。
二つ目は 王<封建領主たち の場合です。王の力が弱く、支配体制が弱体化して、領地安堵も機能せず、秩序は乱れ、領主たちの勝手な行動が目立ち、国内は混乱します。例えばそれは室町時代後半です。そして王権が完全に消滅した時、国内は戦乱の世と化します。それは分権制も中央集権制も一切の国家体制の存在しえない無法の時代です。
そして最後の一つは 王=封建領主たち の場合です。それは完全なものとはいえませんが、王と封建領主とが認め合い、共に手を携えて国を統治する場合です。江戸時代の日本や13世紀半ばの中世フランスがこの状況に近いものといえるでしょう。
中世の支配者層内部の三つの型
王>封建領主たち
王=封建領主たち
王<封建領主たち
これらの三つの形態は中世固有の分割統治から発生するものであり、すなわち国家権力が王権と領主権との二つに分割された結果です。勿論、こうした分割は古代にも現代にも存在しません、何故なら古代も現代も国家権力は唯一の完結体であるからです。それは古代王であり、そして憲法です。
さて石高制についての説明から始まった近世不要の証明は絶対王政のお話まで飛びましたが、ここでいったん、終わりとします。近世は 王>封建領主たち の時代であり、中世の一時期にすぎません。それは自立した歴史ではない。歴史学者は日本においてもフランスにおいても中世王の強力な王権に幻惑されて、軽率な歴史解釈を下してしまった。残念なことです。
信長の兵農分離
兵農分離も石高制と同様、中世が室町時代で死亡したとする説の根拠をなすものです。ここでもその根拠を否定し、この説の誤りを明らかにします。
古代国において国民はすべて王民でした。一方、中世国では王民は存在しません。何故なら、王民は封建領主の領民と化したからです。それは王民の分割の結果であり、それは12世紀、関東の地で始まりました。頼朝は関東の地に生息していた王民(農民と武士)を封建領主たちの領民として分割しました。それは例えば千葉氏の領民、三浦氏の領民、あるいは北条氏の領民などに、です。それは中世の分割主義の始まりでした。
そして室町時代、日本には30名余りの封建領主たち(守護大名)が存在していました。従って足利将軍は日本国民を30余りの領民へと分割しました。そして最終的に江戸時代、徳川将軍は国民を260の封建領国の領民として細分化しました。王民と呼ぶべき国民は最早、存在しません。
ところで室町時代まで武士と農民は共に村に住んでいました。武士は村の中に彼の領地を所有し、農民を管理し、農耕を営んでいました。この時、村は武士と農民との集合体でした。<兵農混合>の時代です。しかし戦国時代、領民は二つに分割されます。有力な戦国大名である信長が戦力強化を求め、彼の領民を仕事に基付いて二分割したのです。一つは戦闘を仕事とする武士です、彼らを城下に常駐させました、そしてもう一つは米を作る農民です、彼らを村に定住させた。その結果、村は農民たちの共同体と化した。この分割は広く、日本全土に広まりました。
そして江戸時代、農民はさらに村人と町人(商人や職人)とに分割されます。それは商業の発達によって町が成立し、町に住む人たちが急速に増え、大きな勢力を築いていたからです。結局、古代の王民は武士、村人、町人の三種の中世人に区分されたのです。それは中世の身分制の成立であり、仕事に基ついた国民分割の行きつくところでした。
さて分割主義は中世の意志です。その一つが国民分割です。日本国民は王民から領民に、領民から武士と農民とに、そして最終的に武士と村人と町人へと分割されたのです。封建領主たちは最初から国民分割を考えたわけではありませんが、(歴史の意志の下)国民分割は切れ目なく継続していったのです。それは中世700年の一貫性をわかりやすく物語っています。
それでは身分制はどのような精確さをもって機能していたのでしょう。身分制は絶対的なものではありませんでした、しかしそうかといって形式的なものでもなかった。すなわち身分制には例外がそれなりにあったということです。
例えば能力の高い農民は封建領主によって雇われ、武士身分を得て、領国の経営に加わりました。あるいは富裕な商人はお金をもって武士身分を手に入れた。そして武士が医者や学者や絵師などに転じることもありました。
さらに町にはいくつものサロンが存在した、そこでは武士、商人、農民が身分を超えて集まり、各種の同好会を結成し、自由な談論を楽しんでいた。例えば俳諧のサロン、狂歌のサロン、茶道、生け花、踊り、絵画などのサロンです。それは日本の特色ある文化を洗練することに大いに役立った。実際、今日の日本文化の多くは江戸時代のそうした人々がその基礎を作り上げたのです。
身分制は確かに三つの身分を備えた制度でしたが、その運用においては身分間の移動の自由が相当程度、認められていたのです。
特に農民が町人に転じることはほとんど当たり前のことでした。とりわけ農家の次男坊や三男坊や女性は町へ出て、行商人、商家の養子、大工、武家屋敷の奉公人などになりました。特に貧農は生き延びるために村を出るしかありませんでした。町は農民にとって魅力的でした、様々な職種があり、たとえ貧しくとも生活を送ることができたからです。幕府は村の荒廃を恐れて、農民の離村化をくい止めようとしましたが、それは不可能でした。
身分制は中世の分割主義の到達点の一つです。しかしながら研究者の方々はそうした分割主義の歴史に無関心です。歴史の前後に目を配らない。彼らは鎌倉時代へと遡らず、歴史的な王民分割を評価せず、さらに江戸時代へ下らず、町人身分の出現に注意を払わない、単に戦国時代におこなわれた兵農分離だけを採り上げる。そして室町時代の兵農混合と桃山時代の兵農分離とを比較し、この違いをもって歴史を区分けしてしまう。室町時代が中世であり、そして桃山時代が近世である、と。実に表面的であり、短絡的です。それは鹿を追う猟師が山を見ずの例えのように、古文書を渉猟する歴史家は歴史を見ずといえるかもしれません。
(とはいえ、筆者は歴史学者の皆さんを尊敬し、感謝しています。何故ならいかなる歴史書も確かな歴史事実の上にのみ成立するからです。そして歴史事実は学者の皆さんが発見し、評価し、公に認定するという努力を続けているおかげで存在しているからです。)
兵農分離は歴史を画する革命事ではありません。それは中世社会を多少、変えただけです。すなわち兵農分離は中世分割史の一コマでしかありません。それだけのことです。兵農分離の論者は歴史の一点だけではなく、広く歴史を観察し、国民分割の連続を精確に検証すべきです。ここには分割主義という中世の本質への理解はどこにもありません。
もしも兵農混合が中世であり、兵農分離が近世であると(短絡的に)処理するなら、兵農混合の発生した江戸時代末期を中世と呼ばなければいけません。というのは当時、八王子(東京都八王子市)出身の農民は刀を身につけ、新選組と称し、戦闘に従事していました。長州でも兵農混合は行われ、農民ばかりか町人までもが武器を取り、戦闘集団を形成していました。そして武家はむしろそんな兵農混合をあおっていた。武家は兵農混合を禁じるどころか、それを助長していたのです。信長や秀吉の行った兵農分離策はあっさりと否定されていた、そしてその結果、兵農混合は全国的な流行となり、幕末の日本は兵農混合の国へと逆行していたのです。
するとどうでしょう、江戸時代末期は室町時代と同じ兵農混合の時代です。兵農混合が中世であるというのであれば幕末も中世といわざるを得ません。さて幕末は中世ですか、日本は中世に戻ったのですか。もしもそうであれば研究者の方々は室町時代が中世、江戸時代が近世、そして江戸時代末期が中世と言わねばなりません。実に中世が二度、出現する。しかしそんな日本史などありえない。これでは日本の歴史は滅茶苦茶です。
つまり兵農混合であろうと兵農分離であろうとそれは等しく支配手段であり、そして中世史の一コマを示すに過ぎない。研究者の方々は支配主体と支配手段を混同している、それ故、皮相的、そして偏向的な解釈を招き、不合理な歴史観をひねりだした。
社会の変化と国の変化は別物です。この二つを混同してはいけません。兵農分離が起きようが石高制が布かれようが、国家支配者や国家体制や国家の政治形態は依然として変わらず、鎌倉時代以来同じものです。何の代わりも無い。
中世農民の自立
最後にもう一つ中世が室町時代で死亡したとする説を紹介します。それは<農民自立説>です。それもまた石高制や兵農分離と共に近世史をひねり出した有名な中世論です。農民の自立こそ中世の終わりを意味し、そして近世の始まりであるとする主張です。それは次のようなものです。―――戦国時代から桃山時代にかけてのことです。農民は兵農分離や太閤検地や石高制の成立をもって自らの農地を所有するようになりました。それは農民の自立といえます。従って農民は最早、奴隷ではない。そして農民の自立は画期的なことであり、すなわち歴史を画すことである、それ故、中世は室町時代で消滅した、そして桃山時代から近世である、と。
残念ながらこの論者も歴史を短絡的に解釈しています。農民の自立は素晴らしいことであり、歴史的といえるものです、しかしそれは歴史を画すものではありません。歴史研究者の方々は歴史の一点に焦点を当てて、そこを一心に深堀します、それは歴史家の使命でしょう、しかし彼らは歴史を広く検証することに甚だ無関心です。
この論者もまた、歴史を検証するにあたり、限られた時代や限られた人種だけを相手にしています。彼は鎌倉時代にまで歴史を遡ることを怠っています、つまり鎌倉期の封建領主や武士を観察せず、従って彼らの成り立ちに気付かず、見逃しているからです。実に片手落ちです。
封建領主や武士の自立が中世人の自立の第1段階です。鎌倉武士は自立した武士でした。彼らは古代武士と違います。古代武士は古代王朝に従属する用心棒であり、貴族の下にうずくまる奴隷的な武人でした。
12世紀、関東の地の封建領主たちは古代王朝から自立しました。彼らは自ら武家の盟主を定め、武家独自の政権を樹立し、武家独自の国家体制を布き、武家独自の法を制定しました。それは古代王朝からの脱却であり、自立でした。
そして農民の自立が第2段階です。それは武士の自立後、300有余年を経た自立です。荘園制の崩壊がそのきっかけでした。その結果、農民は荘園から解放され、自由となり、さらに兵農分離や太閤検地を通じて農地を所有します。桃山時代は農民の自立した時代でした。12世紀に武士が成り立ち、そして16世紀、農民が成り立ちました。当時、農民の人口は全人口の約8割であったといわれていますからその時、日本人のほとんどが成り立ったといえます。それこそが中世の確立であり、そして古代の専制主義の全面的な消滅でした。
中世人は農民だけではありません。武士も中世人です。ですから農民だけの成り立ちをもって歴史を画することなどできません。従って武士の自立を無視し、農民の自立だけで歴史の画期とし、中世室町時代死亡説を唱える論はあまりにも一方的であり、乱暴です。
さらに言えばこの中世論は江戸時代に現れた町人の成り立ちをも無視しています。というのは町人もまた自立したのです。江戸時代、人々は仕事に基つき、武士、農民、町人の三種の人種に分かれていました。武士は武家町に住み、農民は村に住み、そして町人は商人や職人として町人町に住んでいました。
町人は武家の支配下にあり、武家の指示する町人町に住み、武家の法に従っていました。例えば江戸の町人は江戸幕府の支配下で暮らしていた、武家は江戸の秩序を維持するため、そして武家にとって必要な場合、町人の生活を左右する指示や命令を発した。それは基本的に町人に厳しいものであった。
それでも武家は町人たちが江戸の治安を乱さない限り、そして武家の定めた法に背かない限り、彼らの自治を認めていた。それは町自治でした。町には独裁者はいません。町人たちは町法を造り、法に従い町を運営した。それは村自治と同じでした。
猿若町夜景 歌川広重筆 1856年制作
夜、芝居見物後の人々でにぎわう猿若町 猿若町は芝居小屋の集められた町(シカゴ美術館蔵)
実際、町の行政、司法、警察、消防は町人の有力者たちが担当していました。例えば司法に関してですが、町人たちは町人同志の紛争を自分たちで担当し、解決を試みていました。それは裁判ではなく、調停です。そして調停が成立しない場合に限り、その件は幕府の裁判所に持ち込まれました。ですから町で発生した諸問題のほとんどは町人たちが調停において解決していたのです。これが幕府の司法機関がとても小さな規模であったことの理由です。
同様に幕府の治安機関も小さいものであり、武士の警察官はとても少なかった。何故なら町人が自警団を構成し、町内の日々の治安維持を担当していたからです。武士の警察官は大きな事件しか扱いません。そして特に江戸時代後期においては消防の役目も町人が担当した。この点、江戸は町人の巨大な自治体でした、そして江戸幕府はとても小さな政府でした。
興味深いことは町人が免税権を得ていたことです。幕府は町人から税を徴収しませんでした。というのは武家が農民の年貢だけを税と考えていた、そして一方、商人たちの商活動から得られた利益に課税することには無関心でした。武家は町を潤し、領国を活性化する商人の商活動を町人の義務ととらえ、それさえ行われていれば彼らの納税など期待しなかったのかもしれません。
ですから町人たちが公的に支払ったものは町自治のための経費―――警備、火消し、道路や井戸の修理、そして祭りなどの費用だけでした。この免税と自由な商活動は町人を豊かにし、貨幣経済を発展させ、江戸を百万人都市へと成長させました。そして金融や小売りなどの豪商を幾人も輩出した。
喜多川歌麿 《寛政三美人》
武士は武士町に住み、武士流の生活を営み、そして町人は町人町に住み、町人流の生き方をした。この幕府の町人支配は典型的な分割支配です。そして町人の分割支配は中世王が封建領主を支配する形態、そして封建領主が武士や農民を支配する形態と同じでした。
中世王は封建領主が彼の定めた法に従い、そして彼らの義務である戦役を誠実に果す限り、彼らの自治を認め、彼らの領国経営に介入しません。同じように封建領主は武士や農民や町人が彼の法に従い、社会秩序を乱さず、そしてそれぞれの義務(戦役、年貢納入、商業活動)を誠実に遂行する限り、彼らの自治に介入しません。そうして中世の支配者は被治者の自立と自由を保障しました。
これが中世日本の分割支配です。二者の平等という概念がほぼ精確に現実化されていたのです。この点、江戸時代の武家支配は分権統治の一つの完成型です。(村自治は第2章第3節で詳述します。)
一方、古代国では人々は自立も自由も保証されません。人々は古代王の定める法に絶対的に従う、しかしその見返りは何もない。彼らはひたすら服従するのみです。人々は自治体を持つことを許されず、それ故自治という秩序を自ら形成するという大切なことを経験しないのです。そしてわずかな自由は認められても、それは王の命令で、いつ、消えてなくなるかもしれないはかないものです。それが古代の専制主義です。
しかしながら中世は中世でした。というのは中世人の自立や自由はあくまでも彼らの自治体内部に限るものであったからです。自治体の外は中世王や封建領主が支配する地であり、彼らの法が布かれています。農民や町人の自立や自治はそこでは許されません。その点、彼らの自立は中途半端なものであり、それは中世の二重性でした。
農民や町人の自立や自由は限りのあるものですが、それでも人々はそれを彼らの既得権として死守しました。そのため彼らは彼らの定めた村法や町法を順守し、村や町を安定的に運営し、秩序を維持した、それは村や町に介入する口実を中世王や封建領主に与えないためです。
というのは村や町が秩序を失い、混乱すれば間違いなく中世王や封建領主は介入を始め、彼らの自治権を奪い、処罰と圧政を行うでしょう。当然、彼らの自立や自由は消滅する。すべては二者の平等であり、そして約束は約束でした。自治の失敗は保護の喪失をもたらす。従って武士も村人や町人も自律の精神を磨き、順法精神や自治精神を厳しく身につけていったのです。
やがて訪れる現代化革命は中世の中途半端な自治を完全なものへと転じます。革命家たちは廃藩置県を断行し、領国、領地、村、町のすべての垣根を撤廃する、そしてそれらを一つに統合し、国土、国民、そして国家権力を造りました。それは分割支配の消滅です。その時、日本は一つの巨大な自治体、すなわち国民国家として成立したのです。
その結果、すべての国民は例外なく、国内であれば完全な自立と自由を獲得しました、つまり国内であれば国民はどこに住んでもいい、どんな職業についてもよくなったのです。身分制の廃止であり、職業選択の自由です。それは中世の二重性の消滅でした。
そして国民は法を順守し、秩序を形成、維持します。留意すべきことですが、法治国の国民は自分にとって不都合な場合であっても法に従います。それは人々が自制するからです。この自律の精神は人びとが現代になってから突然、身につけたものではなく、中世の厳しい村自治や町自治において培かわれたものです。すなわち人々の精神はすでに強靭化していた。それは中世無に法治国は成立し難いということを示しています。
さて古代国においても自治体は存在したでしょうか。例えば荘園です、それは一種の治外法権の地でした。しかし荘園は人々の所有物ではありません、それは貴族や寺社の持ち物です。そして人々は荘園の管理人によって厳しく管理され、農奴として使役されていた。ですから古代国には自治体は存在しません。
人々の自立は従って次のように推移しました。古代人は自立していなかった、中世人は中途半端に自立した、そして現代人は完全に自立した、と。それは歴史の進化をわかりやすく物語っています。
さて以上で農民自立説の誤りの指摘を終わります。農民が自立した、だから歴史が変わったという論は余りに素朴であり、短絡的です。農民の自立は中世史の一コマにすぎない。歴史の検証は一点に限らず、偏向せず、しかし視野を広げ、そして歴史の連続に注意を払って行うべきです。そして人々の自立を歴史の大きな枠組みの中で考察すべきです。従って中世室町時代死亡説や近世桃山時代誕生説には全く根拠がありません。
家康の国替え
さてこれまで石高制、兵農分離、農民自立と三つの例を示し、中世が室町時代で死亡したとする説の誤りを解説してきました。それでは最後の例として国替えを紹介します。国替えもまたこの説の根拠となっています。
封建領主を統制することは中世王にとって避けて通れないことでした。封建領主はもともと中世王の仲間でありますが、同時に彼らは領主権を持つ自立する武士でもあります。場合によっては中世王に対立し、反旗を翻すこともある。ですから歴代の中世王は農民や町人を支配するだけではなく、封建領主の支配にも精力を傾注しました。
国替とは中世王が封建領主の勢力均衡を目指して封建領主たちを統制する政策の一つでした。中世王は守りを固めるため味方と思える封建領主たちを幕府の近隣に移動させます。例えばそれまで日本の西端に領国を構えていた封建領主をその忠誠ゆえに幕府の近くに移動させ、そこに新しい領地を与えます。そして一方、信頼できない封建領主を日本の北端や西端に移動させる。それは危険の最小化です。その点、国替えは流血を伴わない戦闘といえます。勿論、このような強硬策を実行できる王は全国の封建領主を武力で制圧した秀吉や家康など数少ない、強権を持つ中世王でありました。これが新しい領地安堵です。
一方、鎌倉時代の領地安堵は素朴なものでした。例えば頼朝は封建領主がそれまで支配していた土地をそのまま彼の領地として認めました。彼は封建領主の選別を行わず、彼らを移動させません。何故なら、封建領主が皆、忠臣であったからというよりも彼らは忠臣であらねばならなかったからです。すなわち彼らは正式な支配者となって日はまだ浅く、それ故彼らの領地支配は完全なものではなかった、彼らは領民たちを支配することに精一杯であり、中世王への反逆など思いもよらないことでした。幕府は文字通り彼らの保護者であった。
14世紀、鎌倉幕府は崩壊し、荘園を巡る紛争は多発していました。多くの武士は荘園を管理するどころか荘園を蚕食する、あるいは荘園から上がる年貢を横領していました。荘園領主は最早、なすすべもなく、悲嘆にくれるばかりです。しかしその混乱はやがて鎮められます。それはすでに述べましたが、その地の守護によってでした。
守護は鎌倉時代から各地に設置されていた治安維持の司令官でした。室町時代、幕府は守護に大権や資金を与え、全国各地で発生している荘園にまつわる争いごとを鎮めるよう命じた。それは幕府が事実上、守護をその地の支配者と認めること、そしてその地を彼の領国として安どすることでした。そして争乱を制する過程で守護は多くの荘園を合法的に手中に納めていきます。その結果、彼は領地を大きく拡大し、戦力を高め、財力を増し、守護大名と転じました。彼は最早、田舎の野蛮な封建領主ではありません。
封建領主の成長は分権国ならではの現象でした。領国の勢力は封建領主の経営手腕により、そして領民たちの力により大きくもなり、あるいは小さくにもなります。それは領国間における自由競争です。従って何の制限や条件をつけなければ将軍家の勢力を超える封建領主の勢力がやがていくつも出現することは十分にあり得ることです。室町時代はそんな成長の著しい、それ故勢力不均衡の、危うい状況が発生した時代でした。そうなりますと中世王にとって単純な領地安堵はむしろ危険なものとなります。つまり鎌倉時代と同じような素朴な分割、分与の継続は中世王にとって不都合な結果を招きかねないからです。
それはこういうことです。例えば信頼できない、しかも強大な勢力を誇る封建領主が幕府の近隣に領地を持つ場合、中世王は困惑し、そのまま領地安堵を下すべきかどうか迷います。できればそんな封建領主は幕府から遠い地に移って欲しいからです。
さて足利将軍は貧乏くじを引いたようなものです。室町時代は中世が急成長する時期にあたり、社会の大きな変化は足利将軍家を翻弄したのです。しかも足利将軍は秀吉とは違い強権を持っていません。室町時代の半ばを過ぎるころ、足利家の弱体化は明らかでした。幕府は封建領主たちの信頼を失います、その結果、将軍の大権である領地安堵が機能しません、ですから将軍による封建領主の統制はきかず、勢力不均衡が加速し、社会秩序はいよいよ失われていきました。国替えなど論外でした。
自然なことですが、保護を失った封建領主たちは自らの力で自国を守らねばなりません。ある封建領主は近隣諸国と合従連衡を築く、別の者は近隣諸国を侵略し、領土の拡大を目指す。そうして日本は群雄割拠の時代へと突入していきました。
この大乱は100年、続きましたが、日本は秀吉によってついに統一されます。そして秀吉は直ちに新しい大名統制策をいくつも立てました、何故なら彼はこれまでの合戦を通じて封建領主たちの持つ強大な戦力とその危険を熟知していたからです。封建領主たちの有する戦力は豊臣の平和を目指す秀吉にとって最早、疎ましい存在であった。
その一つは平和令の布告です。問題解決のために武力行使をすべきではない、訴訟によって解決すべきという命令です。これを破った者は秀吉の大軍によって滅ぼされた。
そして秀吉の行ったもう一つの政策が国替でした。それは画期的な領地安堵であり、鎌倉時代以来の領地安堵の形態を大きく変えるものでした。鎌倉時代において中世王は封建領主を保護し、育てることに精力を注いだ。そのため領地安堵は封建領主がそれまで数十年、あるいは数百年、支配してきた領地をそのまま安堵し、領地支配の強化を促した。
一方、桃山時代において領地安堵は封建領主の単なる保護としてではなくなった。秀吉は領地安堵を封建領主の統制策へとその目的を大きく変えたのです。それは政権の維持と全国の治安の維持を目指し、封建領主の勢力均衡を図ることでした。
秀吉の領地安堵は封建領主の忠誠と戦功に基ついて決定されたのです。それは本来の領地安堵であり、きわめて合理的で、わかりやすいものでした。それは鎌倉時代に行われていたような、封建領主がそれまで支配してきた先祖伝来の領地をそのまま認めることではありません。前例や先例は最早、問題外です。
封建領主とは<領地を持つ領主>であり、<先祖伝来の土地を維持し続ける領主> ではありません。彼の支配する領地が既存の土地か、新しい土地かということは領主にとって二の次、三の次のことです。彼にとっての核心は領地の安堵そのものです、その点、国替えは領主権の確保であり、自立の保証であり、そして中世王との主従関係の更新です。
国替えは純粋に武家の双務契約の履行です。国替えに従うことは封建領主にとって契約義務の遂行です。彼の忠誠と戦功が大きければ彼は大きな土地を得る、しかしそれが小さなものであれば小さな領地を得る。その点、国替えは封建領主の生き方と実力がほぼ精確に反映されたものです。
従って国替を拒否する封建領主は契約義務を果さない武士とみなされ、彼は当然、処罰の対象となります。多くの場合、彼は領主権を剥奪され、領地を追われ、彼の家族と家臣は路頭に迷います。
国替は形式主義を排除して、実力主義を確立した記念すべき政策といえます。そしてそれは武家社会をより精密なもの、より強固なものへと高度化していった。
しかし国替えを誤解する研究者の方々は多い。彼らは国替えを専制政治と見誤り、そして国替えに従う封建領主を奴隷的存在とみなす、そして特に小さな領地へ移動した封建領主をからかう。その結果、彼らは秀吉を専制君主と勘違いし、桃山時代の日本を中央集権国と錯覚し、そして中世はその時、終わりを迎え、近世という新しい歴史が始まったと曲解した。
しかしこれらの認識は全くの的はずれです。国替えは紛れもなく中世の政策であり、双務契約の高度な履行です、そして国替えを強行する秀吉は中世王であった。すでに述べましたが、彼は中世を否定する革命家ではない、そして桃山時代は依然として分権制の世であった。
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉
研究者の目は曇っています。彼らは封建領主が数十年、あるいは数百年、支配し続けて来た先祖伝来の領地を絶対視し、この従来の領地の維持こそ封建領主の自立の証であると考えます。 従って彼らは封建領主がその地から引き離され、別の地に移されることを封建領主の奴隷化、自立の資の喪失、根なし草となるなどと感情的にとらえるのです。
そして秀吉の命令に従い、西へ、東へと移動する封建領主たちをまるで各地を転々とする古代王朝の哀れな地方役人のようであると同情する。
しかしこの解釈は印象判断です。歴史研究者の方々は歴史を感情的に眺め、つまずいています。先ず、封建領主と地方役人とは全く違います。東国に移動しても、あるいは西国に移動しても、そしてその地が以前から保有する領地であれ、新しく移った領地であれ、封建領主である限り、彼はその地の所有者であり、そしてその地を支配する領主権を持っています。秀吉は彼らの領主権を尊重し、決してその地に介入しません。
一方、地方役人はいくら位が高いといっても一介の役人にすぎない。彼は勤務先の地で王民を支配しますが、その支配はあくまでも古代王の代理でしかない。彼はその地を離れた途端、支配権を失うのです。彼は領主権を持ちません。古代において国家権力は古代王のみが持つ。ですから封建領主と地方役人とは全く異なります。それは古代支配と中世支配の違いです。従って国替えは古代の政策ではない。そして秀吉は専制君主ではないのです。
国替えは領地安堵の純粋化であり、高度化でした。秀吉の統治を引き継いだ家康もこの国替えを継続します、信頼に値する封建領主に江戸幕府の近隣の領地を与え、しかしそうでない者たちに幕府から遠い、西国の地を与えました。実際、その成果は270年に渡る<徳川の平和>をもたらした。
国替が専制政治ではないということの理由を最後にもう一つ紹介します。それは中世王が国替えを指示する場合、正当な理由と公正さが求められたことです。不公平で、恣意的な国替えは許されません。特に私利私欲の下に行われる国替えはほとんどすべての封建領主から非難されます、中世王は彼らから突き上げを食い、その指示の撤回を求められる。
権利は義務を伴います。ですから徳川は慎重に国替えを行った。例えば徳川は国替えの執行において有力な封建領主と相談し、その判断を公平なものとするように努めた、あるいは国替えの事前に当の封建領主と相談をもった、そして移動する領地についてすり合わせをする場合もありました。
以上で国替えの説明を終わります。残念ながら国替えは今も誤って解釈されています。そしてそれに伴い秀吉や家康、そして彼らの時代は誤って解説されているのです。
近世不要
徳川家は封建領主の統制を確立した中世王家です。徳川家は足利家や秀吉などの開発した統制策を改良し、そして厳格なものとしました。その結果、封建領主たちは2世紀以上にわたり武力を行使せず、徳川家に従順に従いました。
統制策の一つは武家諸法度の制定です。徳川将軍は鎌倉幕府の制定した武家の法典(御成敗式目)を大きく改訂し、新たな法典として武家諸法度を定めました。そこには封建領主の行動を制約する規則がいくつも並んでいました。
例えば、封建領主同士の結婚は徳川の許可を得ること、あるいは封建領主は城を一つだけ構えること(二つ以上の城を造ってはいけないこと)、あるいは他国の者を領内にとどめおかないことなどです。これらは大名勢力を現状に固定化する、少なくとも戦力を増大させないための政策です。大名たちはこれらの決まりを遵守した、さもなければ改易や転封や切腹が命じられました。
一つは参勤交代の制度化です。徳川将軍は室町幕府の大名監視の制度をもとに参勤交代を開発しました。室町時代、足利将軍は封建領主を監視し、牽制するため有力な守護大名を彼らの領国から幕府の近くに移し、常駐させていました。徳川はこの制度を改良しました、それが参勤交代の制度です。全国の封建領主は一年おきに江戸に住むことを義務付けられ、そのため封建領主は自国と江戸とを行き来しなければいけません。封建領主は数週間、あるいは一か月以上をかけて、数百名の武士たちを従えて移動しました。そんな旅団が毎年、全国各地から江戸に集合し、あるいは江戸からそれぞれの領国へと旅立っていたのです。
参勤交代〈国立国会図書館蔵〉
参勤交代は徳川が封建領主の忠誠を確認し、彼らの日常の動静を観察するための制度です。同時にこの制度は日本を様々な領域において平準化しました。というのは封建領主が江戸を離れ、自国に戻る旅の過程で江戸の流行や徳川家の様子や他の領国の動静などが全国の町や村へと伝播していったのです。江戸時代に行われたこの情報の伝播は国家を一つにまとめる明治維新において大いに役立ちました。
そして一つは国替えです。徳川将軍は秀吉の行った国替えを引き継ぎ、さらに大規模に、そして執拗に断行しました。封建領主たちは東に西へと移動し、勢力均衡の体制を築く、そして徳川の平和を確かなものにしたのです。
最後に一つ、それは世襲のための制度です。徳川家は中世王家を度々、悩ませていた世襲問題を解決しました。それは御三家の創設です。徳川家は将軍家に後嗣が絶えた時、徳川家の二つの親戚のいずれかからの養子を次の将軍としました。このことにより徳川は世襲でつまずくことはなく、内部争いを生むことなく、二世紀にわたり代替わりをきれいに処理しました。徳川は大名たちに付け入るスキを与えなかった。
これらの徳川の大名統制はそのほとんどが徳川の発明というよりも数世紀前の中世王たちがそれぞれ編み出した大名統制です。徳川将軍はそれらを参考にして高度化したのです。それは中世の興味深い、そして必然的な深化です、そして中世史の一貫性を明確に物語るものです。
従って室町時代と桃山時代とを本質的に差別する理由は何もありません。二つの時代は中世の支配主体である<中世王、分権制、主従政治>を共有し、連続しています。中世は鎌倉時代から江戸時代まで700年間、途切れることなく続いていたのです。近世という歴史の入り込む余地はどこにもない。
そもそも近世は歴史を名乗る資格がありません。何故なら近世は近世固有の支配主体を備えていないからです。近世は近世固有の国家体制、近世固有の支配者、そして近世固有の政治形態を欠いています。つまり現在、近世と呼ばれている桃山時代と江戸時代は中世の支配主体から構築されているからです。その支配者は中世王、その国家体制は分権制、そしてその政治は主従政治です。
さらに近世は歴史としての資格を持ちません。それはそれぞれの歴史が専制主義、分割主義、民主主義という固有の支配主体を持ちますが、近世はそんな固有のものを持ちません。すなわち固有の支配主体を持たない歴史など歴史とは言えないからです。
さてそれではこの節の最後に三つの中世論を取り上げ、その誤りを指摘します、そして近世史を日本史に組み込むことの不合理さを証明します。最初に中世800年説です。それは中世が800年続いたとする、そして中世は荘園制そのものであるという主張です。つまり中世は荘園制の始まりとともに始まり、そしてその崩壊とともに終わりを迎えた、と。
次は中世500年説です。それは中世が11世紀にはじまった院政とともに始まり、荘園制の崩壊をもって終わりを迎えたとする。そして中世400年説です。それは中世が鎌倉幕府の成立から始まった、あるいは守護、地頭の設置から始まった、そして中世は荘園制が崩壊する時、消滅したと説明します。
注目すべきことは彼ら中世論者がそろって土地制度を基準にして歴史を区分していることです。というのは彼らの中世論はすべて中世の終わりが荘園制の崩壊時に設定されている、そして石高制の開始が近世の出発と指摘されているからです。
そして中世の始まりの時期についても彼らは荘園の開始、院政の始まり、守護と地頭の設置などをもって説明していますが、それらはすべて支配手段であり、支配者によって幾度も変更され、あるいは廃止されるものです。支配手段はいつ始まろうが、いつ終わりを迎えようが歴史を画するものではありません。それは時代を画すだけのものです。
支配手段は日本史上、無数に存在する、社会に与えた影響が小さなものもあれば大きなものもあります。ですから支配手段に基ついて歴史が区分されるならば百人の歴史家は百の異なる支配手段を主張し、百の異なる古代論や中世論をひねり出す。上記の三つの中世論はその典型です。
筆者が三つの中世論を認めないもう一つの理由は歴史が二重基準の下に区分されていることです。どういうことかといいますと歴史家の方々は二つの異なった基準で歴史を裁断している、古代や中世を規定する時、荘園制や院政や石高制などの支配手段を利用します。 しかし一方、現代の始まりを規定する時、彼らは支配主体である中央集権制、憲法、民主政治を採用する。つまり彼らは彼らにとって都合の良いように二つの基準を使い分けている。それは基準のごっちゃ混ぜであり、その結果、歴史は歪むだけ歪む。
研究者の方々は同一基準で歴史を判断しません。それは不公平であり、恣意的です。彼らの中世論は誠実な理論とは言えません。この二重基準こそ近世というまがい物がひねり出され、そして日本史が歪められた元凶です。ですから支配主体という概念の確立は重要です、それは歴史の分析を精確にし、歴史理解を確実なものにするからです。
もしも人々が歴史に真摯に向き合い、支配主体をもって考察するなら日本史を精確に理解するようになるでしょう。中世日本は700年間、存続したこと、二都時代という興味深い時代が400年、続いたこと、武家は分割主義を開発し、新しい国家体制を確立したこと、身分制は分割主義の到達点の一つであること、秀吉や家康などの中世王は専制君主ではないことなど中世の真の姿が歴史教科書に登場することになるでしょう。
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