第2章 中世日本

第2節 中世論の検証
         中世論(400年説、800年説、500年説)の否定

秀吉の石高制

 今日の歴史家の方々は残念なことですが、日本史を四つに区切っています。それは古代―中世―近世―現代という四区分であり、歴史教科書や多くの歴史書に当然のように述べられています。<近世>the early modern period が中世と現代の間に無理やり挿入されている。そしてこの歴史区分は今日の日本において常識となっています。しかも四つの歴史区分は日本史においてだけではなく、西欧史においても主張されています。
 しかし四つの歴史区分は誤りです。この誤りは彼らが中世の本質を精確に把握せず、そして歴史の進化を理解していないためです。この歴史観は日本史や西欧史を曲解し、合理的な史的進化の姿をひどく傷つけています。何故なら、近世は中世に含まれる一時代でしかなく、一つの自立した歴史とは言えないからです。従って近世史というものは歴史から削除されるべきものです。
 歴史の三区分と四区分の違いは単に歴史学の問題ではなく、人類にとって本質的な問題なのです。何故なら、三区分は歴史の進化を明らかにして、歴史の精確な理解を促すと同時に(第3章で述べますが)今日の世界における民主国と専制国との二極の対立の根源的な原因を突き止める、そしてそれ故、二極化の解消にそれなりの働きをするからです。しかし四区分には現代の問題点を指摘する力はありません。
 今日、有名な中世日本論として中世800年説、500年説、そして400年説があります。それらは中世日本がいつから始まり、いつに終わったのかを説明し、中世を定義するものです。しかし三つとも重要な誤りを犯しています。この三つに共通することは中世を二つに分断し、その後半部分を日本史から削除してしまったことです。そしてその消えた部分を埋めるものとして近世という歴史をひねり出した。 実際、日本の歴史年表には室町時代の終わりに一本の縦線が引かれ、中世の終わりが示されています、そしてその先は近世の始まりとなっています。その結果、日本史は四つに区分されたのです。この愚行は西欧の歴史においても当てはまります。
 それでは何故、研究者の方々はこのように中世を中途で切断してしまったのでしょうか。この誤りを招いた根拠の一つが石高制でした。それは日本を統一した秀吉が定めた新しい土地制度、税制度です。12世紀以来、武士は貴族の所有する荘園を侵し続け、年貢を横領し、そして16世紀、すべての荘園を奪い取った。従って、その時、古代王朝の土地制度と税制度は消滅したわけで、それ故、武士は新たな土地制度、税制度を編み出すことになります。それが石高制でした。武士が初めて定めた土地制度、税制度です。
 研究者の方々は石高制に注目し、この出現をもって歴史を区分しました。彼らは土地制度と税制度を重視し、その変化を歴史区分のきっかけと考えたのです、荘園制が崩壊した、だから中世は終わった、そして石高制が成立した、だから近世が始まった、と。
 しかしそれは実に短絡的で、表面的な区分でした。何故なら歴史は支配主体をもって区分されるべきものだからです。土地や税の制度は支配手段であり、古代においても中世においても支配者の都合で幾度も変化するものです。つまりそれらは時代を区別するきっかけとなるかもしれません、しかし歴史を区分する基準とはなりえない。その結果、中世史の持つ一貫性も、そして歴史の合理的な進化の姿も失われたのです。
 これからこの中世室町時代死亡説と近世桃山時代誕生説を否定します。石高制は単なる土地制度、税制度であり、当時の社会を変えただけの制度であり、しかし国家を変革したものではない、つまり歴史を画するものではないことを証明します。


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豊臣秀吉像(狩野光信画)


 秀吉は全国の土地を測量し、それぞれの田における米の生産高を求め、それをもとに税を決めました。そして農民一人一人に特定の農地を与えました。農民はその農地で農業に励み、それなりの富を蓄積し、そしてその中から年貢を毎年、封建領主に納めます。さらに秀吉は年貢を納める農民と年貢を受け取る封建領主とを直接、結びつけました。つまり農民と荘園領主との間に介在していた悪質な中間搾取者が排除されたのです。それ故、納税方法は簡素化、透明化されて桃山時代以降の納税を巡る紛争は激減しました。このような全国的な検地も新しい税制度も秀吉の強権のなせる業です。秀吉以外の者にそんな大胆なことはできません。秀吉は強者です。
 それまではごくわずかな農民だけが土地を所有し、富裕農民となっていました、しかし多くの農民は土地を所有していませんでした。彼らは荘園の耕作者として荘園領主にその労働力を提供し、奴隷のようにかろうじて生きてきたのです。秀吉の政策は多くの農民を荘園制から解放し、土地所有者とした、そしてその結果、農民はその労働力を自らのために使用できるようになりました。それは農民の自立でした。
 それでは決定的なことをお話します。それは石高制を制度化した秀吉はだからと言って全国の税を独り占めしたのではない、ということです。土地制度は変わっても秀吉は依然として自分の領国である近畿地方の田から上がる税をのみ徴収しました。秀吉は徴税権を独占したのではありません、しかし当時、徴税権は200名以上の封建領主に分与されていたのです。彼は領主権を尊重する中世王でした。秀吉は封建領主たちの税を横領しない、彼らの領地経営に介入しません。いかに強権をふるっても彼は古代王とならず、古代に回帰するようなことはしませんでした。つまり桃山時代の日本は依然として分権国であり、中世でした。
 <土地、税制度の変革>と<国家統治の変革>とは別物です。中世の国家体制を変えた人物は19世紀の明治維新の革命家たちです。彼らは廃藩置県を断行し、領国制を廃止し、東京にすべての国家権力を集中しました。それは中央集権制の成立でした。その時が中世の死亡時です。ですから中世は室町時代で死亡したのではありません。中世は室町時代から桃山時代、そして江戸時代へと続いていったのです。その点、桃山時代から近世が始まったとする既存の三つの中世日本論は明らかに間違っています。
 土地、税制度が荘園制であろうと、石高制であろうとそんなことは国家支配の変革に何の影響も与えない。中世論の研究者は二つの点で過ちを犯していました。一つは強権と集権との混同です。強権とは権力の強弱であり、しかし集権とは国家体制の在り方です。この二つは全く次元の違う概念です。
 秀吉はその強権を土地制度、税制度の変更に用いました、しかし彼は国家体制の変更のために使ったのではありません。彼は頼朝以来の分権制に従っていた、しかし分権制を廃止することも中央集権制を確立することもしませんでした。つまり決定的なことですが、秀吉の強権は集権に連続しないのです。日本は依然として分権国でした、そして彼は中世王であり、専制君主ではなかった。研究者の方々は秀吉の強権に幻惑されて、強権を集権と短絡的に結び付けてしまった。
 もう一つの原因は支配主体と支配手段との混同です。彼らはこの二つを区別しません、というのは二つの違いに無関心、あるいは無知であるからです。支配主体という概念はこれまで存在しませんでした。ですから支配主体と支配手段はごちゃまぜにされています。そのため彼らは支配手段である石高制に依存して歴史を区分してしまった。しかし石高制は社会変化をもたらしたにすぎません。
 秀吉は革命家ではなかった、そして彼の日本統一も革命ではなかった。桃山時代は中世に属す一つの時代です。しかし歴史学者の皆さんは秀吉の日本統一を国家の中央集権化と見誤り、桃山時代の日本を中央集権国と錯覚した。そして日本史を4分割するという日本史の捏造に突き進んだ。
 この誤りは西欧史においても同じように認められます。西欧史にも近世the early modern periodという歴史が唱えられ、中世と現代との間に挿入されています。一般的に近世西欧は15世紀から18世紀までの約、300年間とされています。(近世日本は16世紀から19世紀までとされています。)しかし日本史における近世が偽物であったように西欧史における近世もまたまがい物といえます。それも歴史の捏造です。
 例えば中世フランスです。17世紀後半から18世紀初めにかけてルイ14世は中世フランスの国王として強権をふるいました。彼は太陽王と呼ばれ、彼の時代は絶対王政の時代として知られています。ルイ14世はベルサイユ宮殿を造営し、王権を飾り立て、国の内外に彼の絶対性を誇示しました。彼はまるで専制君主のようであり、国家のすべてを掌握しているように見え、実際、彼は封建領主の領主権を脅かしました。彼らの領国に役人を送り込み、彼らの領地支配にあえて干渉しました。つまり彼は封建領主の弱体化を進め、王権の強化を図っていたのです。
 その結果、歴史研究者の方々はルイ14世が専制君主であり、フランスが中央集権国であり、そしてそれまでの分権体制が消滅したと考えたのです。それほど強く彼の強権に幻惑された、そしてその結果、絶対王政という用語をひねり出してしまったのです。ルイ14世へのこの過大な評価は秀吉に対する過大な評価を想起させます。しかし歴史事実は違います。ブルボン王家は確かにフランスの中央集権化を模索しました。役人を中央から封建領国に派遣し、封建領主を牽制し、領主権に介入しようとしました。しかしそれは何を意味するのかといえばフランスは依然として分権国であること、そして封建領主が領主権を堅持していることを表しています。つまりフランスは分権国であった、ルイ14世は絶対君主ではなかった、だからこそ彼はフランスの中央集権化を画策したのです。従って絶対王政などという用語は不正確なものであり、そんなものは存在しなかったのです。
 


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フランス革命はバスティーユ牢獄襲撃事件(1789年7月)から始まりました。
(ジャン=ピエール・ウーエル画)


 それでは何故、ルイ14世は封建領主たちを敵に回す、そんな危険な政策を推し進めようとしたのか。それはブルボン王家が財政の危機に直面していたからです。ルイ14世は近隣諸国と戦争を繰り返し、膨大な戦費に苦悩していました。王は長い間、農民たちを圧迫し、過酷な税の取り立てを行っていた。しかし農民からの税だけでは戦争を遂行することができません。そのため危険を承知で封建領主たちの懐に手を突っ込もうと覚悟したのです。領主権への挑戦です。そしてこの思いはルイ16世の統治下で具体的な政策となりました。それは封建領主から免税権を剥奪すること、そして彼らから税を取り立てることでした。しかし免税権は封建領主が成り立つための生命線です。彼らがそれを手放すはずはありません。
 封建領主は戦役という王に対する契約義務を負っています。それ故、王は封建領主に対し、特権を与え、数世紀にわたり免税権を与えてきたのです。それまで王は戦役を騎士(封建領主)の義務とし、そして納税を農民の義務としてきました。しかしルイ16世は封建領主に対し、戦役も納税も両方すべきであると通告してきたのです。当然、封建領主たちは怒ります、免税権こそ封建領主の証です。もしそれが無くなるのなら戦役という義務も消えることになる。何故なら<保護あっての戦役>ですから。王が封建領主に対し、何の保護も与えないのなら戦役も消えることになります。王一人が敵と戦うのです。それでよいのか、と封建領主は王に問います。免税権の撤廃は封建領主という存在、そして中世の基盤そのものが消滅することでした。
 当然のことですが、ルイ16世は封建領主たちの強い抵抗にあい、結局この政策を撤回することになります。それでもルイ16世は国民から税を奪取することに執着し続けた。そして王は第2の標的として都市の有力商人を選びました。王は彼らから資金を収奪しようと新たな政策を発布する。それもまた王が特権者の持つ特権を奪おうとすることでした。後で詳述しますが、フランスの中世王は数世紀にわたり、国内の有力都市に自治を認めていました。そしてその見返りに都市は王に商業税や兵士を提供していました。ギブアンドテイクです。ですから都市民は封建領主と同じく、特権者であり、王から免税権を得ていました。にもかかわらず今回、王はその特権を無視して、都市の有力商人から資金を巻き上げようとしたのです。それは契約違反であり、二重課税です。勿論、彼らも猛反対しました。
 王は恥も外聞もかなぐり捨てて、資金を得ようと死に物狂いでした。それは税制の中央集権化であり、そして分権制の破壊でした。しかし封建領主と有力商人は王とともに中世国の支配者層を形成してきた仲間です。王はそんな彼らを足蹴にした、それは王が自らの足を食べようとしたことに等しい。
 王の裏切りは結果として支配者層の分裂をもたらし、彼らの結束力を弱体化させた、一方、それは逆に農民と市民との結束を促し、反体制の勢力を形成した。この国家レベルの変化は革命を成功させる重要な要件でした。その点、王こそフランス革命に火をつけ、中世フランスを破壊した張本人といえます。従って中世王が中央集権制を目論むという行為は歴史の矛盾です。つまり絶対王政は矛盾です。そして実際、歴史は古代支配への回帰を許さなかった。
 財政難のルイ16世は立ち止まることもできず、そうかといって前に進むこともできなかった。立ち止まること(特権者の免税権を従来通り認めること)は財政破綻を招き、フランスの敗戦と内乱を招きます。一方、前進(免税権の撤廃)は支配者層の対立を生み、やがて王の自滅をもたらします。つまり彼にとって逃げ道はどこにも無かった。フランスは中世を極限まで追い詰めた。絶対王政という時代は中世末期を指すのであり、現代にいたる最後の一里塚であった。
 ですから絶対王政という時代は見掛け倒しであり、中身が詰まっていない。ルイ14世は全権力を握る古代王ではないのです。そして絶対王政という名称は誤りです。それは相対王政というべきものであり、中世の支配体制です。中世は自ら中世を乗り越えられないのです。中世を乗り越えるものは現代です。現代が分権制を否定し、中央集権制をもたらすのです。中世を裏切ろうとした王は逆に中世によって消されたのです。
 ルイ14世もルイ16世も依然として中世王であり、専制君主ではなかった、強権を持ってはいたが、それは国家権力のすべてを掌握するほど絶対的なものではなかった。ですから絶対王政という時代は存在しません、そしてそれ故、近世という時代も成立しない。
 ルイ14世も秀吉も強権を発揮した。秀吉はその強力な権力をもって土地の制度を変革しました、しかし中世の国家体制を変えようとはしなかった。彼は依然として封建領主たちの徴税権を認め、分権制を維持していました。日本において中世が崩壊するのはその時から300年後の明治維新のことでした。一方、ルイ14世は諸制度の変革にとどまらず、分権制を廃止し、中央集権化を図ったのです。それは分権制と中央集権制との不可避の対立を生み、革命の原点となった。
 そして特筆すべきことは人々の精神が絶対王政によって強靭化したことです。人々は怒りをもってルイ王家による専制政治を拒否した、そして今回は単なる王権の分割ではなく、その廃絶を明確に目指した。実際、人々はかつて恐れ、あるいは時には尊敬さえした王や封建領主をためらいもなく殺害し、あるいは国外へ追放した。人々は世界観を一変したのです。それは人治を根絶することであり、法治を確立することでした。国家の支配者は法であるべきとする思想は人類史上、画期的なことでした。
 その時、古代から度々、人々を苦しめてきた専制主義はようやくその息の根を止めた。その結果、専制政治も主従政治も消滅し、民主政治が成立しました、それは中世の崩壊、そして現代の始まりでした。これが人類史上、二度目の精神の強靭化です。フランス革命はやがて西欧諸国と日本に波及した、そして彼らも中世王と封建体制を排除し、国家の現代化に取り掛かった。その点、フランス革命は革命の中の革命であったといえます。
 人類は2000年に及ぶ専制主義との壮絶な戦いの果てにとうとう彼らの夢をつかんだ。それは人々が専制主義から解放されるという夢です、人治を廃止し、法治を成立させるという夢です、平等と自由をつかむという夢です、そして自分たちを支配する者は自分たちであるという夢です。それは歴史の偉大な進化でした。
 ルイ16世が公開処刑されたことは有名です。そしてフランス革命は恐怖政治の連続となり、百万人の国民が命を落としたこともまた有名です。それは歴史の実相です。フランス革命の革命家たちは廃藩置県を断行し、封建領主たちの握っていた立法権、行政権、課税権などをすべて取り上げて、パリの中央政府の下に集中しました、国家権力の一元化です。
 そして革命に終止符を打ったナポレオンはナポレオン法典を国家法として制定しました。それまでフランス国内で使用されてきた封建領国法や宗教界や商業界で慣習的に使用されてきた諸々の法はすべて廃止されました。それはフランスの法の一元化です。そして国民は法の下、平等になりました。現代国の原型が確立したのです。
 さて中世は現代化革命によって終わりを迎えました。中世の支配主体である中世王や分権制が消滅したのです、そしてその後に現代の支配主体である憲法が制定され、そして中央集権制が布かれました。すなわち中世の後に直接、続く歴史は現代です。しかしそれは近世という歴史ではありません、近世は一つの歴史ではなく、一つの時代でしかない、それは中世の後半部あるいは末期を指し示す時代です。従って日本史の四分割は廃止されるべきです。
 さて分権支配の消滅について次のようにまとめることができます。それは破綻の原因が支配者層内部の観点から三つの型に分けられるということです。
 一つは 王>封建領主たち の場合です。それは中世王の王権が強く、封建領主の権力が弱い場合であり、国家体制(分権制)の弱体化が進み、中央集権体制が成立するような錯覚をもたらします。そんな事例は例えば上記に挙げた秀吉やルイ14世の体制です。そしてその錯覚は絶対王政という用語を生み出し、中世を無理やり破綻させ、そして近世というあり得ない歴史をひねり出しました。歴史の捏造が最も生じやすい場合といえます。
 二つ目は 王<封建領主たち の場合です。王の力が弱く、支配体制が弱体化して、領地安堵も機能せず、秩序は乱れ、領主たちの勝手な行動が目立ち、国内は混乱します。例えばそれは室町時代後半です。そして王権が完全に消滅した時、国内は戦乱の世と化します。それは分権制も中央集権制も一切の国家体制の存在しえない無法の時代です。
 そして最後の一つは 王=封建領主たち の場合です。それは完全なものとはいえませんが、王と封建領主とが認め合い、共に手を携えて国を統治する場合です。江戸時代の日本や13世紀半ばの中世フランスがこの状況に近いものといえるでしょう。
 

中世の支配者層内部の三つの型 王>封建領主たち 王=封建領主たち 王<封建領主たち

 これらの三つの形態は中世固有の分割統治から発生するものであり、すなわち国家権力が王権と領主権との二つに分割された結果です。勿論、こうした分割は古代にも現代にも存在しません、何故なら古代も現代も国家権力は唯一の完結体であるからです。それは古代王であり、そして憲法です。
 さて石高制についての説明から始まった近世不要の証明は絶対王政のお話まで飛びましたが、ここでいったん、終わりとします。近世は 王>封建領主たち の時代であり、中世の一時期にすぎません。それは自立した歴史ではない。歴史学者は日本においてもフランスにおいても中世王の強力な王権に幻惑されて、軽率な歴史解釈を下してしまった。残念なことです。


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