古代王の支配体制
古代、中世、現代というそれぞれの歴史は人の一生のように誕生、成長、盛期、衰退そして死から成ります。そしてそれらの歴史は当然のことながら固有の性格を備えています。そしてそれぞれの歴史の始まりはその固有の性格が初めて現れた時であり、そしてそれが消滅する時がその歴史の終わりとなります。そうであれば歴史の性格を知ることが先ず、すべきことです。この進化論は先ず、古代、中世、現代を定義することから始まります。
先ず、古代から始めます。古代日本は飛鳥時代から戦国時代までの約1000年間です。始まりは飛鳥時代(593~710)です、古代王が全権を掌握し、国王として君臨し、そして日本の統治を始める頃です。そして終わりは戦国時代(15世紀末~17世紀初頭)です。戦国時代は日本史上、最大の内乱の時期であり、古代王朝が崩壊した時期でした。
古代国の支配者は古代王です。彼は絶対者であり、彼に代わりうる者はいません、古代王は国土、国民、国家権力のすべてを一元的に掌握しています。従って、国土は王土(公地)であり、国民は王民(公民)であり、そして国家権力は絶対王権です。
古代国では古代王が法です。法は古代王の独占物であり、王の、王のための規則です、しかし国民の合意ではありません。従って法は古代王次第で生まれ、変わり、そして消えるのです。
王民は王の意向に伴い動きます、そして止まります。それは人治という支配体制です。古代国の王民は王に逆らいません、何故なら王に逆らう者は朝敵とされ、賊軍、賊徒として討伐されます。すなわち古代における安全保障とは古代王への絶対服従です。
<中世日本の歴史区分>
<既存の歴史区分>
古代史 |
中世史 |
近世史 |
現代史 |
~11又は12世紀 |
12世紀~16世紀 |
16世紀~19世紀 |
19世紀~今日まで |
飛鳥、奈良、平安時代 |
鎌倉、室町時代 |
桃山、江戸時代 |
明治~令和時代 |
※中世は室町時代で消滅します
<本書の主張する歴史区分>
古代史 |
中世史 |
現代史 |
6世紀~16世紀 |
12世紀~19世紀 |
19世紀~今日まで |
飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町時代 |
鎌倉、室町、戦国、桃山、江戸時代 |
明治~令和時代 |
※近世は削除されています
※中世は鎌倉時代から江戸時代まで続きます
※鎌倉時代と室町時代は古代と中世とが同居する特殊な時代です
尚、古代国では特別な場合に限り、古代王以外の者が国家を支配することがありました。例えばそれは古代王が幼い時です。そんな場合、古代王の代理人が登場し、政治を担当します。それはほとんどの場合、幼い王の外祖父です。それは摂政政治です。有名な外祖父は藤原道長(966~1028)です。彼は娘たちを古代王に嫁がせました。つまり彼は古代王の義父となったのです。そして外祖父として、幼い古代王(彼の孫)に代わり、専制政治をほしいままにしました。
もう一つの場合は院政です。古代王の代理人は彼の父であり、彼の祖父です。院政は王位を退いた古代王が新しい古代王を差し置いて実質的に専制政治を継続することです。それは親政が相当程度、形骸化することです。ですから新しい古代王である自分の子供や孫は一種、傀儡の王と化します。院政を行った者として後白河法皇(1127~1192)が有名です。
親政にせよ、摂政政治にせよ、そして院政にせよそれらはすべて古代王家の専制政治であり、専制政治の三態です。いずれの政治も古代王家が王権を独占しています、しかし王家以外の者は永久に王権を手にすることはできません。これは王家の世襲を表すものであり、世界の多くの古代国に共通することです。
尚、古代国や中世国には国の政治を司る者として<宰相>という人物がいます。彼は王の支配を補佐する優れた政治家です、例えば貴族階級の代表者、あるいは官僚機構の首席、あるいは高僧の一人です。但し、留意すべきことですが、彼はあくまでも王の部下であることです、しかし支配者ではありません。
さて古代王は国家支配をするにあたり、先ず固有の国家体制と政治形態を決めます。それは古代支配の本質に基付くものであり、古代王が国家の全権を掌握し、そして全国民を一元的に支配するために必要不可欠なものです。一つは国家体制です。それは国家権力がすべて王の下に集中する体制であり、中央集権制と呼ばれます。古代王は古代王の代理人である貴族たちを都から派遣し、一定期間、地方を統治させる。代理人の主な仕事は治安の維持と徴税です。古代王の政策は代理人を通じて全国津々浦々に届けられます。そして全国の税は代理人を通じて都の古代王の下に集まります。中央集権制も世界の古代国に共通する体制です。
尚、国家体制というものは二つあります、一つが中央集権制であり、もう一つが<分権制>です。そして中世の国家体制は分権制であり、国土、国民、国家権力がいくつにも分割された、それでいてそれらが一定のまとまりをもつ体制です。つまり国家体制も古代と中世とでは異なっており、それは正反対なものとなっています。(分権制については後で詳述します)
そして全国民を一元的に支配するために設けられたもう一つのものが専制政治です。古代国の政治は古代王の独裁です。彼を補佐する者は勿論、いますが、それはあくまでも補佐に過ぎない。古代では古代王の言葉がすべてです。その独裁が専制政治と呼ばれます。この政治形態も古代特有のものであり、世界の古代国に共通するものです。
王の専制支配を補佐する者は貴族と宗教者でした。後で詳しく述べますが、多くの古代国で王は貴族と聖職者と密接な関係を結び、古代の支配者層を形成した。貴族は実務面において王を補佐し、そして一方聖職者は信仰を通じて専制支配を支えました。そのため王は例外的に貴族と聖職者に土地所有を認めることがあった。
<古代王、中央集権制、専制政治>は古代支配の三種の神器です。筆者はこれを古代国固有の支配主体と呼びます。ですから古代とはこの支配主体が存続する期間を指します。それが約1000年間です。
<古代王、中央集権制、そして専制政治>をひとまとめでいえば、それは専制主義といえます。すなわち古代の本質は専制主義です、そして専制主義の始まる時が古代の始まりです。そして専制主義の破綻する時、そして清算される時が古代の終わりです。そしてこの三つの支配主体を備えた国は21世紀の今も存在します。それは例えばロシアであり、中国です。これらは専制主義国であり、今日、様々な局面で民主主義国と対立しています。すなわち本質的なことですが、支配主体は時と空間を超えて機能する普遍性を持つ概念であり、歴史の進化を証明するカギの一つです。
そしてこの支配主体の下に各種の制度や組織が整えられます。古代王が支配体制を維持し、発展させるための諸制度です、例えば土地制度や税制度です。古代日本の土地制度は公地公民制、三世一身法、墾田永年私財法と幾度も変転し、最終的に不輸不入の権を備えた荘園制として成立しました。このように土地制度や組織は古代王の意向の下で幾度も変わります。筆者はこれを支配手段と呼びます。
重要なことですが、支配主体は不動のもの、堅いものであり、時代によって多少の強弱は生じますが、数百年に渡り存続し、国家を根底から支えます。一方、支配手段は不変のものではなく、幾度も変わるものです。例えばそれは土地制度や税制度ですが、時代の要請に従い、二度も三度も変化します。支配主体が支配手段を決定するのです。
従って土地制度などのような容易に変転する支配手段を軸にして歴史を画期することは大きな問題です。それは不正確な歴史区分を生む、そして歪んだ日本史を形成してしまいます。歴史を画すものは支配主体です。歴史を区分するとは支配主体の出現と消滅を見極めることであり、しかし土地制度をもってするのではありません。
古代王朝の請負制
古代王は日本全土の所有者です。彼は国土を切り分けて、国民に農地として貸し出します。国民はそこで農耕に励み、そして借り賃として税を納める、それが公地公民制という税制度でした。単純明快な制度です。
しかし公地公民制はやがて破綻し、王朝は財政難に襲われます。この制度は国民から忌避されたからです。働いても、働いても土地は自分のものとはならず、農民は奴隷のように一生、使われ続けるしかないからです。しかも税率は高い。その結果、農民は農地から逃走する。結局、公地公民制は消滅します。
そのため古代王は新たな税制を模索します。その結果、導入されたものが荘園制でした。それは王土を王民に貸すのではなく、与えることでした。王民が土地を所有する制度です。それは実に画期的な制度でした。その結果、日本の社会は大きく変わります。
勿論、土地の授与は王民への単純なプレゼントではありません。荘園制の下、土地所有者は荘園領主と呼ばれます。彼らは上級貴族や大寺社や富裕な農民そして武士たちです。彼らは荘園で農民を使役し、コメなどの農産物を得て、富を蓄積します。そして王はその富の上前を撥ねる、それが彼の新たな税収です。古代王は自らの土地を手放すことで財政難を解消しようとしたのです。
しかし古代王の意図が何であろうと荘園制の成立は国民の欲望に火を付けました。荘園は大きな財産です。富を求めて力あるものは皆、荘園の造成を競い合いました。彼らは未開の地を開発し、大小の農園を造成します。大開墾時代です。その結果、日本の社会は流動性や多様性を増す、新しい仕事、言葉、職業、組織、集落、流通網などが次々に誕生しました。
しかしそれは専制主義を大きく傷つけるものでもありました。古代王は絶対者という立場から転落したのです。国家の土地と富は古代王が独占するものではなくなった、これら少数の有力者も握ることになったのです。それでも古代王は国内の土地を支配し続けていたといえます。というのは国民によって開発された農地が荘園として適当なものかどうかは最終的に古代王が判断し、古代王が認可したからです。いわば国民の首根っこは依然として古代王が握っていた。古代王がその農地を荘園として認可しなければ、あるいはその認可を再検討し、取り消すならば荘園は存在しえません。つまり古代王は絶対の土地所有権を失いましたが、土地所有の認可権(一種の土地貸出権)を確保し続けていたのです。その点、古代王は絶対者であり続けていたのです。
さて荘園制はやがて変質します。古代王は貴族(荘園領主)に免税権を与えたのです。つまり王は荘園からの上りを税とせず、それを貴族たちに給料の代替物として認めました。荘園の上りが彼らの給料です。それは王が貴族たちの要求に屈したからでもありますが、実際は古代王が最早、貴族たち(役人)に給与を支払う能力を欠いていた、つまり金欠の状態となっていたからです。こうして富の上前を撥ねるという古代王の当初の目的は完全に費えたのです。それでも王朝は人件費を大いに削減することに成功しました。
古代王の苦境はさらに続きます。そのため古代王が次にしたことは王朝に仕える役人を解雇することでした。これも人件費の削減です。王は特定の貴族たちに王朝の仕事を丸投げしたのです。それは専門職の始まりです。王朝の仕事は細かく分割され、儀礼の仕事、法律の仕事、料理の仕事などに分けられます、そしてそれぞれはそれを得意とする貴族に与えられ、その結果、貴族の家の仕事と化します。家職の成立です。そして家職は世襲化されます。
重要なことは家職が古代王の認定する特権であるということです。王は特権階級を創造したのです。そして特権は当然、利益を生む。すなわち貴族は古代王に仕え、王朝の仕事を(無給で)続けながら同時に、家職に精を出し、稼ぎを増やします。それが給料というわけです。それは<請負制>です。請負制は世界の古代国において支配者が生き延びるために採る常套手段の一つでした。<代理制>が機能しなくなると<請負制>が始まるのです。請負制は古代欧州や古代アラブの国など多くの古代国において行われていました。請負制の主たる目的は人件費の削減です、財政の安定化です。しかしそれはしばしば無責任体制となり、国内の治安を乱すことになります。
古代王の丸投げはさらに続きます。彼は地方統治(地方の治安の維持や徴税)をも丸投げしました。それは地方の治安が不安定で、紛争が曼延していたからです。
何故、地方が荒れていたのかといえばそれは荘園制が出現した結果、国民の欲望に火がついたからです。各地の荘園の周りには欲望が渦巻いていた、悪党が跋扈し、治安は乱れ、荘園から上がる税は彼らによってしばしば強奪された。そのため王朝や荘園領主は十分な税を得ることができず、彼らの財政は危機に陥っていた。にもかかわらず、王朝は治安を回復する新しい制度や法を制定できなかった、そして地方役人も有効な手を打てなかった。地方統治の丸投げはそうした地方の混乱と徴税の危機から生まれたのです。
王は地方長官を解雇した、その代わり彼にあるいはその地の有力者に地方統治の全権を与えた。それは地方統治の請負であり、彼をその地の独裁者とすることでした。請負者は王朝の指示から解放され、独自の支配を徹底していった。それは地方を一変させた。
請負者は悪党どもを取り締まるため兵力を増強しました、そして自ら税や税率を定めた。勿論、税率は高く引き上げられ、その結果、巨額な税収が彼の懐に転がり込みました。彼は請負の契約通り、税収の一部を王や荘園領主に届け、残りは全部、自分の懐に納めた。彼はたちどころに富裕者となります、一方、農民は重税に苦しみ、地方はさらに荒廃した。
王はまじめではあるが、力のない代理人よりも強面の請負人を選んだのです。王にとって税さえきちんと入ってくれば地方が荒廃しようが、そして農民が苦しもうがどうでもいいのでした。王は最早、統治者ではありません、しかし無責任な、非情の強奪者でした。治安の維持を放棄する支配者は最早、支配者とは言えません。
個人の欲望の解放は結果として剛腕な請負人を必要とした。古代王の権威や古代の法や制度は最早、無力でした。すなわち欲望を制御するものは最終的に武力であることが明白になった。そしてそんな認識が常識化した。それは武士が主人公となる新しい世界の到来を予感させるものでした。その点、荘園制と王朝の無力さが中世を準備したといえます。
古代王は軍隊をも放棄しました。軍隊を維持するお金が無いからです。王は複数の軍事貴族たちに軍隊を丸投げしました。軍事の請負です。その結果、いくつかの私製の軍事部隊が編成され、そしてそれは世襲化しました。それも一種の家職です。それまで王朝に仕えていた戦士たちはそれらの軍隊に移りました。
軍事貴族は古代王の命令の下、東に西へと遠征し、各地の反乱を見事に鎮めていました。荘園制の成立以来、富を奪い合う争いは全国各地で増え、そしてそれは時々、政争や反乱にまで発展していたのです。その結果、軍事貴族は古代王から多くの褒美をもらいます、それは王朝内の高い官位であり、地方を支配する地方の支配権です。従って古代王は一応、軍事貴族を支配していますが、実際は彼らの戦力なくして日本を統治できないのです。軍事貴族の軍隊は古代王に従属しつつも、半ば自立しています。それは王にとって危険なことでした。
さて平清盛(1118~1181)は代表的な軍事貴族でした。彼は古代王に信頼され、地方の争乱を鎮め、そしてその報酬として500もの荘園を所有し、さらに政治の領域においても貴族をしのぐ権力を握っていました。それはほとんど古代王の権力に匹敵します。その時、王家は彼の勢力拡大を恐れ、彼と対立を深め、彼を政権から追放しようとしました。
1179年、清盛はクーデターを起こし、王を襲い、彼を離宮に幽閉しました、そして王家の幼い子を選び、新しい王として立てました。何故ならその子は彼の孫であり、従って彼は外祖父として事実上の支配者として君臨したのです。それは摂政政治でした。ですから王は変わっても古代の支配体制は依然として継続していたのです。従ってそのクーデターは支配者層内部の権力争いとして、古代史の一コマといえます。彼の支配はわずか数年のものでしたが、それでも歴史上大きな事件でした。
摂政の清盛肖像
その時、幽閉されていた古代王の第3皇子が全国の武士に挙兵を促しました。そしてそれを契機として全国の武士たちが立ち上がり、平氏一族を攻めて討伐しました。この戦いは日本史上、有名な合戦の一つであり、それをもとに多くの物語や戯曲が生まれました。その結果、古代王家はめでたく政治の舞台に復帰します、しかしいったん、傷ついた王権は元の姿には戻りません。
一方、王家の危急を救った武士たちはさらに勢力を強化し、拡大していきます。このクーデターを鎮めた代表的な武士は源頼朝(1147~1199)という軍事貴族の末裔でした。彼は冷静であり、直ちに日本の支配者を目指しませんでした、王を都から追放しようとも、殺害しようともしません。その代わり彼は日本の東国に武家独自の政権を樹立しました。それが鎌倉幕府(1185~1333)です。中世日本の最初の中世王朝です。それは中世フランスの最初の中世王朝であるカペー王朝(987~1328)や中世イギリスの最初の中世王朝であるノルマン王朝(1066~1154)に相当します。
さて古代王朝はこのようにして弱体化していきました。役所仕事、地方統治、そして軍隊の丸投げは古代支配の空洞化であり、無責任体制そのものです。国家権力は王が形式的に掌握していますが、事実上、いくつにも分散されてしまったのです。古代の支配主体である古代王、中央集権制、そして専制政治は形式的なものと化し、その実態を失っていきました。当然、全国の秩序は乱れ、治安は悪化しました。特に荘園をめぐる紛争は増えました。富を巡る争いです。
当時、荘園は唯一の宝の山でした。そこは欲望のカオスです。荘園領主の傲慢と強欲、荘園管理人や徴税人の年貢の横領、荘園で働く農民たちの結束と自治の主張、そして荘園を行政上、管理する地方役人の使命と私欲、これらが入れ乱れていたのです。当時、荘園に絡む紛争は古代王の権威の下、訴訟によって解決されました、しかし人々の欲望に終わりはありません。訴訟による解決に満足できない人々や訴訟自体を無視する人々はやがて武力や謀略をもって問題を解決するようになります。
荘園を奪うにせよ、荘園を守るにせよ武力という新しい力が出現し、成長することになりました。多くの荘園領主は自らの荘園を守るため、そして荘園管理者は自らの権益を維持し、そして拡大するため、そして荘園を奪い取ろうとする者たちは皆、武士を集め、武士団を雇います。武力が欲望のぶつかり合いを決定する。武者の台頭です。武士がその存在を主張し始めたのです。
そして画期的なことは武士が荘園領主の用心棒としてだけではなく、自ら荘園を所有する荘園領主に転じたことです。それは武力を備えた土地所有者の誕生でした。その時、日本史は大きな節目を迎えます。中世という新しい歴史が生まれ、武士という新しい支配者が生まれるのです。この点、武士は荘園制の落とし子のようなものです。荘園制は新しい人種と新しい日本を準備していたのです。
以上で古代日本の支配主体の説明、そして古代王朝の衰退過程の説明を終えます。次はこの衰弱した古代支配がどのように淘汰され、終焉を迎えるのか、そして古代王朝に変わり、武士という新しい支配者がどのように中世の支配主体を形成していくのかという奮闘ぶりを説明します。それは古代と中世との違いを明らかにし、古代と中世との歴史上の区分を明確にします。その時、日本史は最初の進化を遂げるのです。