第2章 中世日本

第3節 中世の人々

封建領主の双務契約

 中世日本は12世紀に始まりました。関東の地で頼朝と封建領主たちが一致団結し、圧倒的な武力を構成し、強欲な役人たちを関東の地から追放し、あるいは殺害しました。古代王朝の支配は文字通り、跡形もなく消えたのです。
 そして重要なことは彼らの堅い結束が双務契約によってもたらされたということです。双務契約は武家の開発した革新的な中世固有の契約でした。それは一方が他方を支配する形の片務契約とは違います。主君と従者とが互いにその存在を認め合い、対等な立場に立ち、それぞれが死活的な義務を負う契約です。
 さて双務契約は一般的に中世武士の行った<保護と忠誠>の交換として単純に説明されています。双務契約を結ぶ者は共に重い義務を負う。主君の義務は従者を保護し、土地を与え、彼の生活を支えることです。一方、従者の義務は主君に忠誠を示し、主君の敵と命を懸けて戦うことです。それは双務契約がギブアンドテイクの契約であるとする説明であり、間違ったものではありません。しかしそれは余りにも表面的な説明であり、この契約の重要性が十分に説明されているとは言えません。
 頼朝と封建領主が結んだ双務契約が日本史上、初めての双務契約でした。双務契約の目的は現実的に言えば古代王朝の勢力を関東の地から一掃するためのものですが、本質的に言えば契約当事者が互いに安全を保障し合うためのものです。いわば双務契約は契約当事者が運命共同体を形成するためのものです。
 頼朝は封建領主たちの支配する土地を彼らの所有物として安堵しました。そのために彼は土地の下知状を作成し、それを封建領主に与えました。それはその地がその領主のものであることを証する公的な土地所有の認定書です。それは無法の地において封建領主たちが最も望んだことでした。さらに頼朝は戦時における封建領主の見事な戦功を評価し、彼に新しい土地を与えます。頼朝は彼らの願いに誠実に応えたのです。


genpei

源頼朝下文(1192年)神奈川県立博物館蔵


 双務契約書そのものは存在しません。上記の下知状は頼朝が封建領主たちに与えた所領安堵の認定書です。封建領主たちはこの下知状を得る代わりに頼朝の敵と戦い、彼を守りました。
 すでに述べたことですが、頼朝は封建領主たちの土地を安堵すると同時に彼らの領主権を認めました。それは彼らの<成り立ち>を可能とし、この時、彼らは初めて<封建領主>と呼ばれ、歴史上の定位置を占めたのです。
 一方、その見返りに封建領主たちは頼朝を敵から保護します。それは彼らの戦役であり、彼らの義務です。そしてそれは義務であると同時に彼らの自発的な行動であったともいえます。何故なら、彼らの土地所有は頼朝あっての所有ですから。彼らの土地所有は頼朝に100パーセント、依存しています。もしも頼朝が死んでしまったら、彼らは土地所有の認定を失い、再び土地泥棒へと転落してしまう。つまり彼らの戦役は頼朝のためでもありますが、畢竟、彼ら自身のためである、つまり彼らの領地を維持するためでありました。従って一方、頼朝も封建領主たちを厚く保護することによって彼自らを保護したのです。
 どちらの保護行為も死活的なものであり、どちらかが義務を果さなければ両者の相互扶助は消滅し、共に生存の危機に陥ります。つまりこの命を懸けた相互扶助の構造こそ堅い結束を生み出す根源でした。
 一方、古代国において双務契約は存在しません。古代王と貴族とはいかなる意味においても対等な関係ではなかった。それは命令者と服従者の関係であり、王は権利のみを持ち、一切、義務を負いません。古代の契約(請負)と双務契約は全く違う。前者は古代王が従者との間で仕事の委託と受託に関する契約であり、従者が一方的に責任を負う片務契約です。ですから請負は互いに生存をかけた双務契約とは言えません。勿論、王は農民と双務契約を結ぶこともなかった。
 頼朝と関東の武士が双務契約を結んだことは決定的でした。そこから王権の分割や領主権を備えた中世の支配体制が誕生したからです。そしてそれは同時に古代の専制主義を駆逐することでした。
 もしも頼朝と領主たちが双務契約を結ばなかった場合を想像してみましょう。先ずいえることは彼らの挙兵が単に古代史の一コマとなる、ということです。それは平清盛の行ったクーデターと変わりない、古代王への反逆でしかありません。そして頼朝は東国に新しい古代王として君臨し、古代のヒエラルキーの中で専制政治や中央集権制をひきずったまま、領主や武士を一方的に従え、人々を支配したことでしょう。それは新しい古代王朝の出現でしかありません。領主たちは封建領主へと転じることもなく、領主権を有せず、頼朝に服従するままであった。双務契約は開発されず、そして分権制も布かれなかった。つまり中世世界は現れなかった。
 双務契約こそ中世の核心です。中世は武士の登場と彼らの開発した双務契約の二つが結合した結果、誕生したのです。従って、<中世は武士の登場で始まった>という単純な説明は注意を要する。それは誤りであるとは言わないまでも不完全であり、表面的すぎるからです。正しくは武士が登場し、そして双務契約を開発し、実行したことによって中世は生まれたというべきです。
 従って中世が武士の誕生から始まったという素朴な説明は撤回されるべきです。それは双務契約の歴史的な価値を見逃すばかりか、古代と中世の分岐を明らかにする貴重な機会を逸することになるからです。双務契約は単なる武家の飾り物ではありません。
 付け加えれば中世の誕生が鎌倉幕府の成立時、あるいは守護、地頭の設置時であるとする主張も否定されるべきです。何故ならその主張は鎌倉時代の始まりを示すものであっても中世の始まりを示すものではないからです。時代の説明と歴史の説明とは次元の異なるものです。
 さて無法の地は新しい支配体制の下で秩序を回復しました。それは双務契約が法の代替物として機能したことを意味し、そして秩序を欠いた、戦乱の時代に求められるものであることを暗示します。
 すなわち武家の双務契約は法の代替物として機能し、無法の地における安全保障でした。ですから双務契約は戦乱の時代、例えば、鎌倉時代黎明期、鎌倉幕府崩壊期、南北朝期、応仁の乱から戦国時代、そして幕末の動乱期などにその威力を発揮しました。その時、中世王と封建領主、そして武士は一致団結し、運命共同体を構築し、彼らの敵と戦いました。
 しかし江戸時代のような平和な時代、そして法が一定の力を発揮し、秩序を形成していた時代、双務契約の出番は限られて、それなりに形骸化しました。戦争がなければ戦役も戦功も発生しません、その上、幕府によって武士たちは武力の行使を厳しく禁じられていた。ですから2世紀以上にわたり、国内に武力闘争は発生せず、彼らの双務契約は形の上で存在しただけでした。
 従って武家の双務契約は無法の地において大きな役目を果たす、しかし秩序の回復した地では軽視され、形骸化するものといえます。
 さて双務契約はさらに中世社会の形成に大きく寄与しました。それは中世に平等主義を芽生えさせたことです。双務契約は上位者と下位者とが上下の壁を取り払い、同じ地平に立ち、安全を求めあうことです。それは契約当事者の間に生じる平等関係です。
 双務契約は両者が対等であることが絶対条件です。一方が他方を支配する不平等な契約とは全く違います。双務契約は日本史上、初めて人々が自発的に他者と協力し、共同行為を行ったものです。頼朝は命令者であり、上位に立っていますが、上下の壁を越えて、領主たち(下位者)を認めました。そして一方、封建領主は従者でありますが、上下の壁を越えて頼朝(上位者)を認めたのです。
 日本において<二者の平等>は中世の始まりを告げるものでした。そして中世の平等主義はやがて高度化します。19世紀に起こった現代化革命を通じて<二者の平等>は<万民の平等>へと転換しました。それは国家の支配者として憲法が制定され、すべての国民が等しく保護されることでした。
 明治維新の革命家たちは中世の双務契約をすべて解約し、その代わり国家と国民との間に新しい双務契約を創出しました。国家(憲法)が国民を保護し、安全と安心を保証する、そして国民はその見返りに国家に対し納税や勤労の義務を果すというものです。
 この現代の双務契約は戦時における特殊なものというよりもいつの時代にも成立する普遍的な契約といえます。それは中世の双務契約の普遍化であり、高度化でした。そして平等主義を本格的に成立させるものでした。
 双務契約について注目すべき点はもう一つあります。それは双務契約が中世日本に新しい生き方を持ち込んだことです。それは誠実に生きるということです。それは双方がそれぞれの契約義務を完遂するために必要とされるものです。双務契約の目的は互いの安全を保障することですから、義務の遂行は死活的なことであり、そしてそのためには誠実さが必然的に求められたのです。
 勿論、誠実に生きることはたやすいことではありません。誠実であるためには揺るぐことのない、強い精神力が必要です。もしも自らの義務を果さず、途中で投げ出す、あるいはごまかすようなことをすれば彼らの安全は保障されず、共に危機に陥る、あるいは命を落とすかもしれません。例えば、封建領主が戦役を果さず、戦場から逃げてしまうようなら中世王は敗者となり、殺害されてしまうかもしれません。あるいは中世王が封建領主の見事な戦功を公正に判断せず、封建領主に新しい土地を与えなかったのなら両者の間は険悪となり、契約は破綻するかもしれません。それは双方の危機に直結します。
 ですから契約の履行は絶対です。武士は誠実な生き方というものを双務契約から学びました、そして彼らは日常生活の場においてもその生き方を実践するようになります。しかも双務契約は中世王と封建領主の間に結ばれただけではなく、封建領主と武士の間にも、そしてやがて封建領主と農民との間にも結ばれます。すなわち中世人のほとんどが双務契約に加入し、誠実な生き方というものを学んだのです。
 その結果、日本人の精神は数世紀にわたり鍛えられ、諸々の契約や約束を守ることは当たり前のこととなります。誠実な生き方は21世紀の日本にも引き継がれています。このように双務契約の出現は画期的なことであった。片務契約から双務契約への変化が人々の精神を強靭化し、そして人々を服従者から自立者へと進化させたのです。
 さて双務契約が人々に誠実さを育んだということは人々が自主性を獲得したということでした。つまり人々が双務契約を誠実に履行するか、しないかは契約当事者の自由ですから。中世人は選択の自由を得たのです、そして多くの者は誠実に契約義務を果した、しかし例外的に義務を果さず、相手を裏切る者もいました。それは中世に自主性が誕生したことを示すものであり、日本史上、初めて自律というものが現れたことを意味します。自らが自分の人生を切り開く、それこそ人々の真の自立でした。
 双務契約は責任感というものの大切さを人々に植え付けました。そして自律を始めた人々は自分の言論や行動に責任を負うことになる。双務契約の義務を果すことばかりではなく、人々は日常生活の場においても物事を最後まで責任感をもって全力で処理するようになった。特に武士は自らの責任を全うできるように自らを鍛え、その武力と精神力の向上に努めた。それでも責任を取ることに失敗した時、武士は自死によって清算した。
 一方、古代国では<選択の自由>が著しく制限されています。人々は古代王の指示や命令に従う限りにおいて初めて自由を得る。しかしそれはごくわずかな自由です。しかもその自由は古代王の一言で翌日、消えてなくなるかもしれないはかないものです。何よりも古代王は人々の生殺与奪の権を握っている。現代国の自由に比べればそれは到底、自由とは言えません。
 それは古代の人々が土地を所有していないばかりか、一人の人間として成り立つことが不可能であるということ、自立できないということを意味する。自分の人生を<生ききる>ことが大変、難しい。ですから古代社会は<自己を認められない>人々の集団です。当然、<自立する他者>も存在しない。自己を認めない人は他者をも認めない。
 それは相互信頼の欠如です。ですから他者との信頼をもとに行う国土の分割統治や双務契約は古代国において根本的に成立し難いことといえます。さて古代国の人々が自律に不得手な理由を別の事例から説明してみましょう。例えば古代王が国内にはびこる汚職を非難し、人々に汚職をしないように命じることがあります。それは立派な行為です。人々は王の命令に従い、汚職を控えます。それも素晴らしいことです。しかし人々が汚職を避ける理由は王の暴力から逃れるためです。汚職すれば有無を言わさず、逮捕され、場合によっては殺害されますから。
 しかしこの命令が止めば、あるいは王の権威が無くなれば、人々は再び汚職に走り出す。何故なら、人々は自らすすんで汚職を失くそうとしたわけではない、王の暴力を恐れ、王に服従しただけですから。結局、彼らは自律的な生き方や自制から無縁なのです。国家支配が専制である限り、人々の精神の強靭化は起きません。
 これも重要なことですが、双務契約は中世社会に相互信頼を育みました。人々は1年、2年と双務契約を誠実に履行することによって次第に相手を信頼するようになります。その結果、信頼できる相手は血縁や縁故の小さな集まりを超えて広い社会のいたるところに認められるようになる。それは画期的なことでした。血縁社会や縁故社会とは異なる信頼を基軸とする広く開かれた社会が出現したのです。中世社会は信頼社会です。その結果、中世人は仕事や生活の場において物事を円滑に、そして効率よく進めることができるようになった。そして契約や約束をしっかり守る人々は頑丈で、緻密な社会を構築した。
 一方、古代人が相手を信頼できるところは血縁社会や縁故社会においてのみです。従って彼らは血縁や縁故の小さな社会から一歩外に出ますとそこではどの相手をも信頼できません。何故なら、双務契約の存在しない古代社会では人々が相互信頼を得る手段を持たないからです。当然、古代国には相互信頼のある、開かれた社会が成立せず、血縁や縁故の、閉じた、小さな社会が散在するだけです。
 従って彼らは国家レベルの合意や自発的な共同事業に不得手です。その結果、国家経営も企業経営も血縁や縁故ある特定の人たちによって秘密裡に行われる。当然、そこに不正や汚職が発生する。それが今日の専制国の状況です。
 そんな国民が秩序を得るためにすることは哀れなことですが、独裁者の登場を待つことだけです。すなわち人々を一つに結束し、秩序を形成するものは独裁者の権力と暴力だけです。そこに沈黙の秩序が生まれ、古代国が誕生するのです。ロシアや中国などの古代国の歴史は独裁政権の連続です、そしてそれは本質的に人々の相互信頼の乏しさにあるのです。そこでは中世に至る道は閉ざされている。
 以上で双務契約の説明を終わりとします。双務契約は古代の専制を否定して、平等主義を育み、人々を厳しく鍛え、日本社会を大きく向上させたのです。繰り返しますが、双務契約は武士の飾り物ではありません。
 歴史教科書は双務契約にもっと光を当て、その歴史的な価値を子供たちに紹介すべきでしょう。


農民たちの村自治

 一般的に荘園領主はいくつもの荘園を所有していました、そしてそれぞれに徴税人を配置し、年貢を取り立てていました。徴税人は荘園領主の代理人かあるいは請負人です。特に請負人は時代とともに変わりました、例えば下級貴族、有力農民、武士、寺僧、商人などです。そうした荘園の請負者は荘園領主と農民との間に位置する中間管理者であり、彼らの多くは様々な口実を設け、年貢を横領していました。
 室町時代、荘園領主は農民自身に年貢徴収を任せました。それは画期的な方式であり、中間管理者を排除するものでした、代理人も請負人も置きません、その方式がとれたのは農民たちが成長し、強い結束力を示していたからです。実際のところ、荘園領主が頼れる者は農民だけであったといえます。それは窮余の一策でした。荘園制が始まってからすでに600年以上が経過していました。
 しかし室町時代は荘園制の崩壊する時代です。14世紀から15世紀にかけて鎌倉幕府の滅亡、南北朝の争い、そして足利将軍家の内紛など国家支配をめぐる事件や紛争は打ち続き、国内は混乱を極めていました。その混乱に乗じて武士や悪党は荘園の簒奪を繰り返していた。そんな時代を背景として荘園領主は再び、新しい請負人を雇います。それが守護でした。
 すでに述べましたが、守護は室町幕府の下、各地方に配置されていた治安維持の司令官です。荘園領主は無法の時代にふさわしい強面の請負者として彼らを選んだのです。しかしそれは危険な選択でした、そして守護は荘園領主にとって最後の請負人でした。
 室町幕府は守護に治安維持の司令官の役目だけでは無く、荘園訴訟の判決を執行する執行官の役目をも与えました。幕府によるこの委任は事実上、将軍が守護にその地の領主権を与えたことに等しい。守護は強権を握ったのです。
 その結果、守護は多くの兵士を集めます、そして係争中の荘園に進出し、武力と大権をふるい、合法的に荘園の所有権を奪い、次々と荘園を手中にしていきました。それは荘園の管理者が荘園の簒奪者へと変身することでした。それは権力の乱用に見えます、しかしそれは歴史の必然として許されることでした。守護の横暴は歴史が認めることです。
 戦国時代は日本史上、最大の内乱の時代でした。
 古代王朝も室町幕府も崩壊し、そして中世は大きな転換点に差し掛かった。それは二都時代の終焉でした。古代王の支配と武家の支配とが並立する特殊な時代は消えて、武家のみが日本の支配者となる時代がようやく訪れたのです。中世は一段と純化され、武家の支配は強化されていきます。
 戦国大名は新期の封建領主として新しい税制度を追求しました。それは彼らが手に入れたおびただしい荘園から富を得る方法の確立です。それはすでに述べましたが、秀吉の制定した石高制です。それは画期的な税制度であり、納税の仕事をすべて農民に任せるものでした。但し、その方式は荘園領主がかつて行っていたものとは決定的に異なるものでした。
 封建領主は武士と双務契約を結んでいましたが、この時、彼らは村(農民たち)とも双務契約を交わしたのです。それは封建領主と農民たちが安全を保障し合い、運命共同体を形成することでした。戦国大名の義務は村を周囲の敵から守り、農耕の安全を保証する。一方、村は毎年、戦国大名に年貢を納め、領国の財政を保証する。それはかつて関東の地の頼朝と封建領主たちとが手を握り合ったことに似て、無法の地における二者の協力行為であった。
 この契約は封建領主と農民を対等な立場にした。年貢をとる者と年貢を納める者とが対立を乗り越えて、日本史上初めて対等になったのです。何故、村は戦国大名と手を組んだのか、それは荘園制の崩壊の結果です。すなわち荘園領主の消滅は荘園管理人の消滅でもありました。管理人の多くは悪人でありましたが、それでも村を守る役目をそれなりに果たしていました。その管理人が消えたのです、村は丸裸の状態です。
 村には一人の支配者もいません。村は一時的でしたが、権力の空白期にあたっていたのです。当時の村は荘園領主の支配から封建領主の支配へと移行する過渡期にあった。新しい支配者となる封建領主は未だ、村支配への途上でした。
 農民たちは自分で村を守らなければいけません。しかし国内は無法の地であり、村の周囲には常に武士や悪党や盗人がうろついていました。さらに近隣の封建領主同士が合戦を始め、それに巻き込まれるなら村は破壊されます、村人の家々は放火され、田畑は荒らされ、収穫物は奪われます。
 ですから農民たちは近隣の封建領主に保護を求めたのです。戦国大名の持つ武力をもって村を守ってもらう。村はその見返りとして毎年、その戦国大名に年貢を納める、そして戦時には兵士を提供します。若い農民は封建領主の戦力の一部として戦争に加わり、戦闘の下働きをしたのです。
 一方、封建領主もまた村との双務契約に活路を見出していました。何故なら年貢は大名の財政基盤を支えるものであり、戦を続けるには必要不可欠なものです。毎年の、そして定期的な年貢こそ大名の生命線です。そして村が安全であれば農作業は計画通りに進行する、そしてそれは豊作をもたらすはずです。そのため封建領主は積極的に村を支援した、例えば新しい農耕技術を農民たちに教える、あるいは新しい作物を紹介しその栽培を奨励するなどです。
 従って、農民にとって納税は最早、服従と屈辱の象徴ではありません。納税は自らの安全を自らが確保するための手段、武器となったのです。それは農民を真に自立させるものでした。それは現代人が納税や教育の義務を果たすことによって国家から安全を得ることと同じです。それは屈辱ではありません。
 さて封建領主と荘園領主は農民に対する対策において大きく異なっていました。荘園領主は村と双務契約を結びませんでした、何故なら彼は農民たちを保護できない、彼には村を守る武力がないからです。そしてそのことよりもむしろ彼には農民たちを守るという発想がないのです、何故なら彼にとって農民とは奴隷ですから。勿論、彼には双務関係という中世の平等主義を理解する力がありません。荘園領主は古代人です。彼にとって対等な人的関係というものは理解の他でありました。しかし時代は最早、契約社会です、時代は絶対者という者を認めなかった、その存在を許さなかった。従って荘園領主は淘汰されるべき過去の存在と化していたのです。それは精神の弱さ故に、人々が進化しない例です。そして進化しない者は淘汰されます。歴史は妥協を許すことなく、人々を支配し、その意志を貫徹したのです。
 封建領主は村を支配した、そして同時に村と対等な関係を築いていた。少なくとも双務契約上、両者は対等です。そのため封建領主は村が年貢を未納しない限り、あるいは村が彼の領国に悪影響を及ぼさない限り、村の自治を保証しました。領主にとって年貢こそ領国の生命線です。武家は根底的に農民に依存している、農民が米を作らなければ、武家は成り立つことができません。
 勿論、封建領主は支配者として様々な命令を村に対し、発しました。その命令は農民が農耕に真剣に取り組まない場合、農民が年貢の納入義務を果さない場合、あるいはその恐れのある場合に限りました。その他のことは農民の自由であり、武家があれこれ言うべきことではなかった。
 従って約束通り、年貢さえきちんと納められるのなら領主は農民に注文を付けません。農民はそんな武家の複雑な立場を察していますから、領主の命令に絶対服従することはなかった。そしてその命令が厳しすぎるもの、あるいは見当違いのものであれば農民は逆に領主を非難する、そしてその命令を撤回させることさえありました。


kiyomori

四季農耕図屏風(国立歴史民俗博物館蔵)


ページトップに戻る