封建領主の双務契約
中世日本は12世紀に始まりました。関東の地で頼朝と封建領主たちが一致団結し、圧倒的な武力を構成し、強欲な役人たちを関東の地から追放し、あるいは殺害しました。古代王朝の支配は文字通り、跡形もなく消えたのです。
そして重要なことは彼らの堅い結束が双務契約によってもたらされたということです。双務契約は武家の開発した革新的な中世固有の契約でした。それは一方が他方を支配する形の片務契約とは違います。主君と従者とが互いにその存在を認め合い、対等な立場に立ち、それぞれが死活的な義務を負う契約です。
さて双務契約は一般的に中世武士の行った<保護と忠誠>の交換として単純に説明されています。双務契約を結ぶ者は共に重い義務を負う。主君の義務は従者を保護し、土地を与え、彼の生活を支えることです。一方、従者の義務は主君に忠誠を示し、主君の敵と命を懸けて戦うことです。それは双務契約がギブアンドテイクの契約であるとする説明であり、間違ったものではありません。しかしそれは余りにも表面的な説明であり、この契約の重要性が十分に説明されているとは言えません。
頼朝と封建領主が結んだ双務契約が日本史上、初めての双務契約でした。双務契約の目的は現実的に言えば古代王朝の勢力を関東の地から一掃するためのものですが、本質的に言えば契約当事者が互いに安全を保障し合うためのものです。いわば双務契約は契約当事者が運命共同体を形成するためのものです。
頼朝は封建領主たちの支配する土地を彼らの所有物として安堵しました。そのために彼は土地の下知状を作成し、それを封建領主に与えました。それはその地がその領主のものであることを証する公的な土地所有の認定書です。それは無法の地において封建領主たちが最も望んだことでした。さらに頼朝は戦時における封建領主の見事な戦功を評価し、彼に新しい土地を与えます。頼朝は彼らの願いに誠実に応えたのです。
源頼朝下文(1192年)神奈川県立博物館蔵
双務契約書そのものは存在しません。上記の下知状は頼朝が封建領主たちに与えた所領安堵の認定書です。封建領主たちはこの下知状を得る代わりに頼朝の敵と戦い、彼を守りました。
すでに述べたことですが、頼朝は封建領主たちの土地を安堵すると同時に彼らの領主権を認めました。それは彼らの<成り立ち>を可能とし、この時、彼らは初めて<封建領主>と呼ばれ、歴史上の定位置を占めたのです。
一方、その見返りに封建領主たちは頼朝を敵から保護します。それは彼らの戦役であり、彼らの義務です。そしてそれは義務であると同時に彼らの自発的な行動であったともいえます。何故なら、彼らの土地所有は頼朝あっての所有ですから。彼らの土地所有は頼朝に100パーセント、依存しています。もしも頼朝が死んでしまったら、彼らは土地所有の認定を失い、再び土地泥棒へと転落してしまう。つまり彼らの戦役は頼朝のためでもありますが、畢竟、彼ら自身のためである、つまり彼らの領地を維持するためでありました。従って一方、頼朝も封建領主たちを厚く保護することによって彼自らを保護したのです。
どちらの保護行為も死活的なものであり、どちらかが義務を果さなければ両者の相互扶助は消滅し、共に生存の危機に陥ります。つまりこの命を懸けた相互扶助の構造こそ堅い結束を生み出す根源でした。
一方、古代国において双務契約は存在しません。古代王と貴族とはいかなる意味においても対等な関係ではなかった。それは命令者と服従者の関係であり、王は権利のみを持ち、一切、義務を負いません。古代の契約(請負)と双務契約は全く違う。前者は古代王が従者との間で仕事の委託と受託に関する契約であり、従者が一方的に責任を負う片務契約です。ですから請負は互いに生存をかけた双務契約とは言えません。勿論、王は農民と双務契約を結ぶこともなかった。
頼朝と関東の武士が双務契約を結んだことは決定的でした。そこから王権の分割や領主権を備えた中世の支配体制が誕生したからです。そしてそれは同時に古代の専制主義を駆逐することでした。
もしも頼朝と領主たちが双務契約を結ばなかった場合を想像してみましょう。先ずいえることは彼らの挙兵が単に古代史の一コマとなる、ということです。それは平清盛の行ったクーデターと変わりない、古代王への反逆でしかありません。そして頼朝は東国に新しい古代王として君臨し、古代のヒエラルキーの中で専制政治や中央集権制をひきずったまま、領主や武士を一方的に従え、人々を支配したことでしょう。それは新しい古代王朝の出現でしかありません。領主たちは封建領主へと転じることもなく、領主権を有せず、頼朝に服従するままであった。双務契約は開発されず、そして分権制も布かれなかった。つまり中世世界は現れなかった。
双務契約こそ中世の核心です。中世は武士の登場と彼らの開発した双務契約の二つが結合した結果、誕生したのです。従って、<中世は武士の登場で始まった>という単純な説明は注意を要する。それは誤りであるとは言わないまでも不完全であり、表面的すぎるからです。正しくは武士が登場し、そして双務契約を開発し、実行したことによって中世は生まれたというべきです。
従って中世が武士の誕生から始まったという素朴な説明は撤回されるべきです。それは双務契約の歴史的な価値を見逃すばかりか、古代と中世の分岐を明らかにする貴重な機会を逸することになるからです。双務契約は単なる武家の飾り物ではありません。
付け加えれば中世の誕生が鎌倉幕府の成立時、あるいは守護、地頭の設置時であるとする主張も否定されるべきです。何故ならその主張は鎌倉時代の始まりを示すものであっても中世の始まりを示すものではないからです。時代の説明と歴史の説明とは次元の異なるものです。
さて無法の地は新しい支配体制の下で秩序を回復しました。それは双務契約が法の代替物として機能したことを意味し、そして秩序を欠いた、戦乱の時代に求められるものであることを暗示します。
すなわち武家の双務契約は法の代替物として機能し、無法の地における安全保障でした。ですから双務契約は戦乱の時代、例えば、鎌倉時代黎明期、鎌倉幕府崩壊期、南北朝期、応仁の乱から戦国時代、そして幕末の動乱期などにその威力を発揮しました。その時、中世王と封建領主、そして武士は一致団結し、運命共同体を構築し、彼らの敵と戦いました。
しかし江戸時代のような平和な時代、そして法が一定の力を発揮し、秩序を形成していた時代、双務契約の出番は限られて、それなりに形骸化しました。戦争がなければ戦役も戦功も発生しません、その上、幕府によって武士たちは武力の行使を厳しく禁じられていた。ですから2世紀以上にわたり、国内に武力闘争は発生せず、彼らの双務契約は形の上で存在しただけでした。
従って武家の双務契約は無法の地において大きな役目を果たす、しかし秩序の回復した地では軽視され、形骸化するものといえます。
さて双務契約はさらに中世社会の形成に大きく寄与しました。それは中世に平等主義を芽生えさせたことです。双務契約は上位者と下位者とが上下の壁を取り払い、同じ地平に立ち、安全を求めあうことです。それは契約当事者の間に生じる平等関係です。
双務契約は両者が対等であることが絶対条件です。一方が他方を支配する不平等な契約とは全く違います。双務契約は日本史上、初めて人々が自発的に他者と協力し、共同行為を行ったものです。頼朝は命令者であり、上位に立っていますが、上下の壁を越えて、領主たち(下位者)を認めました。そして一方、封建領主は従者でありますが、上下の壁を越えて頼朝(上位者)を認めたのです。
日本において<二者の平等>は中世の始まりを告げるものでした。そして中世の平等主義はやがて高度化します。19世紀に起こった現代化革命を通じて<二者の平等>は<万民の平等>へと転換しました。それは国家の支配者として憲法が制定され、すべての国民が等しく保護されることでした。
明治維新の革命家たちは中世の双務契約をすべて解約し、その代わり国家と国民との間に新しい双務契約を創出しました。国家(憲法)が国民を保護し、安全と安心を保証する、そして国民はその見返りに国家に対し納税や勤労の義務を果すというものです。
この現代の双務契約は戦時における特殊なものというよりもいつの時代にも成立する普遍的な契約といえます。それは中世の双務契約の普遍化であり、高度化でした。そして平等主義を本格的に成立させるものでした。
双務契約について注目すべき点はもう一つあります。それは双務契約が中世日本に新しい生き方を持ち込んだことです。それは誠実に生きるということです。それは双方がそれぞれの契約義務を完遂するために必要とされるものです。双務契約の目的は互いの安全を保障することですから、義務の遂行は死活的なことであり、そしてそのためには誠実さが必然的に求められたのです。
勿論、誠実に生きることはたやすいことではありません。誠実であるためには揺るぐことのない、強い精神力が必要です。もしも自らの義務を果さず、途中で投げ出す、あるいはごまかすようなことをすれば彼らの安全は保障されず、共に危機に陥る、あるいは命を落とすかもしれません。例えば、封建領主が戦役を果さず、戦場から逃げてしまうようなら中世王は敗者となり、殺害されてしまうかもしれません。あるいは中世王が封建領主の見事な戦功を公正に判断せず、封建領主に新しい土地を与えなかったのなら両者の間は険悪となり、契約は破綻するかもしれません。それは双方の危機に直結します。
ですから契約の履行は絶対です。武士は誠実な生き方というものを双務契約から学びました、そして彼らは日常生活の場においてもその生き方を実践するようになります。しかも双務契約は中世王と封建領主の間に結ばれただけではなく、封建領主と武士の間にも、そしてやがて封建領主と農民との間にも結ばれます。すなわち中世人のほとんどが双務契約に加入し、誠実な生き方というものを学んだのです。
その結果、日本人の精神は数世紀にわたり鍛えられ、諸々の契約や約束を守ることは当たり前のこととなります。誠実な生き方は21世紀の日本にも引き継がれています。このように双務契約の出現は画期的なことであった。片務契約から双務契約への変化が人々の精神を強靭化し、そして人々を服従者から自立者へと進化させたのです。
さて双務契約が人々に誠実さを育んだということは人々が自主性を獲得したということでした。つまり人々が双務契約を誠実に履行するか、しないかは契約当事者の自由ですから。中世人は選択の自由を得たのです、そして多くの者は誠実に契約義務を果した、しかし例外的に義務を果さず、相手を裏切る者もいました。それは中世に自主性が誕生したことを示すものであり、日本史上、初めて自律というものが現れたことを意味します。自らが自分の人生を切り開く、それこそ人々の真の自立でした。
双務契約は責任感というものの大切さを人々に植え付けました。そして自律を始めた人々は自分の言論や行動に責任を負うことになる。双務契約の義務を果すことばかりではなく、人々は日常生活の場においても物事を最後まで責任感をもって全力で処理するようになった。特に武士は自らの責任を全うできるように自らを鍛え、その武力と精神力の向上に努めた。それでも責任を取ることに失敗した時、武士は自死によって清算した。
一方、古代国では<選択の自由>が著しく制限されています。人々は古代王の指示や命令に従う限りにおいて初めて自由を得る。しかしそれはごくわずかな自由です。しかもその自由は古代王の一言で翌日、消えてなくなるかもしれないはかないものです。何よりも古代王は人々の生殺与奪の権を握っている。現代国の自由に比べればそれは到底、自由とは言えません。
それは古代の人々が土地を所有していないばかりか、一人の人間として成り立つことが不可能であるということ、自立できないということを意味する。自分の人生を<生ききる>ことが大変、難しい。ですから古代社会は<自己を認められない>人々の集団です。当然、<自立する他者>も存在しない。自己を認めない人は他者をも認めない。
それは相互信頼の欠如です。ですから他者との信頼をもとに行う国土の分割統治や双務契約は古代国において根本的に成立し難いことといえます。さて古代国の人々が自律に不得手な理由を別の事例から説明してみましょう。例えば古代王が国内にはびこる汚職を非難し、人々に汚職をしないように命じることがあります。それは立派な行為です。人々は王の命令に従い、汚職を控えます。それも素晴らしいことです。しかし人々が汚職を避ける理由は王の暴力から逃れるためです。汚職すれば有無を言わさず、逮捕され、場合によっては殺害されますから。
しかしこの命令が止めば、あるいは王の権威が無くなれば、人々は再び汚職に走り出す。何故なら、人々は自らすすんで汚職を失くそうとしたわけではない、王の暴力を恐れ、王に服従しただけですから。結局、彼らは自律的な生き方や自制から無縁なのです。国家支配が専制である限り、人々の精神の強靭化は起きません。
これも重要なことですが、双務契約は中世社会に相互信頼を育みました。人々は1年、2年と双務契約を誠実に履行することによって次第に相手を信頼するようになります。その結果、信頼できる相手は血縁や縁故の小さな集まりを超えて広い社会のいたるところに認められるようになる。それは画期的なことでした。血縁社会や縁故社会とは異なる信頼を基軸とする広く開かれた社会が出現したのです。中世社会は信頼社会です。その結果、中世人は仕事や生活の場において物事を円滑に、そして効率よく進めることができるようになった。そして契約や約束をしっかり守る人々は頑丈で、緻密な社会を構築した。
一方、古代人が相手を信頼できるところは血縁社会や縁故社会においてのみです。従って彼らは血縁や縁故の小さな社会から一歩外に出ますとそこではどの相手をも信頼できません。何故なら、双務契約の存在しない古代社会では人々が相互信頼を得る手段を持たないからです。当然、古代国には相互信頼のある、開かれた社会が成立せず、血縁や縁故の、閉じた、小さな社会が散在するだけです。
従って彼らは国家レベルの合意や自発的な共同事業に不得手です。その結果、国家経営も企業経営も血縁や縁故ある特定の人たちによって秘密裡に行われる。当然、そこに不正や汚職が発生する。それが今日の専制国の状況です。
そんな国民が秩序を得るためにすることは哀れなことですが、独裁者の登場を待つことだけです。すなわち人々を一つに結束し、秩序を形成するものは独裁者の権力と暴力だけです。そこに沈黙の秩序が生まれ、古代国が誕生するのです。ロシアや中国などの古代国の歴史は独裁政権の連続です、そしてそれは本質的に人々の相互信頼の乏しさにあるのです。そこでは中世に至る道は閉ざされている。
以上で双務契約の説明を終わりとします。双務契約は古代の専制を否定して、平等主義を育み、人々を厳しく鍛え、日本社会を大きく向上させたのです。繰り返しますが、双務契約は武士の飾り物ではありません。
歴史教科書は双務契約にもっと光を当て、その歴史的な価値を子供たちに紹介すべきでしょう。
中世の二重性
さて興味深いことは中世人の人的な関係についてです。中世人は双務契約を通じて平等関係を手にしましたが、それは直ちに現代が始まったということではありませんでした。何故なら、彼らは平等関係を獲得しながらも依然として上下関係という古代からの人的関係をも引きずっていたからです。
例えば頼朝と封建領主たちの間には上下関係と平等関係の相反する関係が同居していた。上下関係は頼朝が盟主として封建領主たちに敵を討てと厳しい命令を下すことです。それは明らかに古代から続く一方的な上下関係と同じです。それでいて両者は双務契約を通じて対等です。頼朝は彼らの領主権を認め、それを侵しません。そして勿論、封建領主も王権を認め、頼朝を尊重します。そこには支配、被支配の関係は存在しません。
つまり中世人は他者と上下と平等の相反する関係をもつ。それは古代(上下関係、専制主義)と現代(平等関係、民主主義)とが一つに混合された状態です。そしてこの奇妙な関係は中世人にとって日常の人的関係でした。そしてそれが<中世の主従関係>です。この不思議な二重性は中世が古代と現代の中間に位置するからです。
古代の王権は絶対王権です、しかし中世の王権は<相対王権>です。中世王の命令は<領主権を侵さない限りにおいての命令>であり、抑制の効いた命令です。つまり双方の間の平等関係が主君の厳しい命令に一定の歯止めをかけている。王は封建領主の生存権、財産権、そして領地支配権を侵すことはできません。それは契約上、保障されています。従って領主権は一種の人権といえます。王権は日本史上初めて人間性を備えたもの、そして合理性を伴うものとなったのです。
従って主従関係という用語は注意をもって使用されるべきです。古代の主従関係と中世の主従関係と、主従関係には二種類あるからです。古代の一方的な主従関係(上下関係)と中世の洗練された主従関係(上下と平等が並立する関係)とは厳密に区別され、使用されるべきです。
同様に、中世武士と古代武士との違いにも注意を払うべきです。古代武士は奴隷のように主君に絶対服従する従者です、しかし中世武士は中世王の保護(恩賞の授与)が十分で公正なものである限りにおいて中世王に忠実に服従します、命を懸けてまで中世王のために働きます。
しかし中世王の保護が十分なものではなく、公正なものでもなければ忠誠は発生しません、その時、封建領主は中世王に対し、戦役を果さず、そして彼らの双務契約を破棄します、あるいは暗殺します。中世の服従は<保護あっての服従>であり、あくまでも<相対服従>です。そしてそれが忠誠といわれるものです。ですから忠誠というものは厳しく、そして生々しいものです。もしも忠誠というものを何か理想的なものと理解していればそれは改めなければいけません。
一方、古代国には忠誠というものは存在しません。<古代王への忠誠>というものは矛盾した表現です。それは<古代王への服従>と訂正されるべきです。今日の古代国であるロシアや中国には忠誠というものは存在しません。ロシアや中国の独裁者は絶対者ですから古代国には双務契約というものは存在しません、当然、契約義務や平等主義や人権や抵抗権も存在しません。国民は独裁者の圧政(権力と暴力)の下、ひたすら口を閉じ、服従を続けます。もしも抵抗すればその者は逮捕されます、あるいは暗殺されます。古代人にとっての安全保障とは古代王に絶対服従することです、それが彼らにとって必要不可欠な生き方です。
従って古代人の服従を忠誠とは呼びません。それは間違った表現です。古代人の服従はあくまでも絶対服従です。忠誠というものは平等主義の誕生した国において、すなわち双務契約の開発された国において初めて成立するものです。
現実主義の成立と挫折
双務契約は中世社会に平等主義を芽生えさせました。そして双務契約は同時に現実主義をも芽生えさせていました。中世人は現実を重視して生きるようになったのです。何故なら双務契約の当事者にとって重要なことは地位や年齢や前例などの形式ではなく、契約義務が果たされたかどうかという結果(現実)にあるからです。
例えば、中世王は武士たちの働きぶりを調査するため戦場の検証人として軍監を配置しました。そして武士は彼の戦功を訴えるため旗指物を身につけていました。彼らにとって事実こそが重要なのです。何故なら中世王にとって武士に対する公正な領地安堵は彼の義務であり、そして武士にとって戦功は財産(土地)の維持、増加に直結するからです。
武士ばかりではなく、中世の裁判官も事実――証拠、証文、証人をもとに人物や事件を調査しました。そして農民や商人は証文を交わすことで事実の確認を行っていました、文書主義です。
現実主義は室町時代において花開きました。それは不安定な足利将軍の支配が秩序をしっかり維持できず、下剋上の風潮をもたらしていたからです。既存の秩序は崩壊し、力こそ正義であり、力あるものが地位を得る、そして財産を増やす時代でした。形式主義は徹底して否定され、日本社会は実力主義の社会となった。
古代王の権威も古代王朝の組織や規則なども武家によって一掃されました、見る影もありません。そして武家社会の中においても実力がすべてであり、力ある者が上に立ち、支配者となる。前例などはありません。あっても認められません。そしてこの混乱と動乱の中で古代王朝も室町幕府も崩壊していくのでした。
従って日本は戦乱の世となり、危険に満ちていましたが、人々はほぼあらゆる頸木から逃れてとても自由で、明るかった。彼らは現実を信じ、現実を直視し、現実的に生きました。それはのびやかで、そして真剣な生き方でした。ですからこの時代の人々が日本史上、最もくっきりとした表情を見せていて魅力的です。
旧い制度や伝統や文化が淘汰され、代わりに新しい産業や組織や文化が次々と生まれました、それは日本社会を大きく変えました。それらは今日の日本社会の基礎を形成しています。例えば日本建築、畳や障子、着物、貨幣経済の成長、卸売市場や問屋の成立、店舗の常設、都市の発展、華道、茶道、能、そしてわび、さびの文化などです。
一方、西欧においても現実主義は確実に育っていました。それはルネッサンス期のことです。北部イタリアでは農業のほかに商業や金融や貿易などが栄え、それに伴い新しい発明や発見が次々と起こっていました。時計(時の可視化)、遠近法(空間の可視化)、羅針盤(海洋空間の可視化)、複式簿記(お金の流れの可視化)、解剖学(肉体内部の可視化)、楽譜(音の可視化)などの誕生です。それらは人々が現実を信頼し、彼らの生活の基盤として据えて、そのため現実を精確に把握しようとした結果です。そしてそれらの新しい発明、発見は順次、西欧諸国に伝わっていきました。
しかし中世が現実主義の確立した世界であったというのではありません。残念ながらそうした社会は現代を待たねば成立しないものでした。中世社会は依然として古代の悪に染まっていたからです。例えば戦国時代においても依然として血縁や縁故による差別や女性蔑視や非科学的な事柄が根強くはびこって現実を覆い隠していたからです。それは中世西欧においても同じでした。例えば中世西欧の魔女裁判や天動説などです。迷信や占いや男女差別や人種差別などが依然として人々を支配していました。それらは西欧各国の封建領主や聖職者がしばしば行っていたことです。勿論、それらは今日では許されないことです。
従って中世は現実主義と平等主義が全面的に定着した歴史というよりもこの二つが初めて芽生えた世界であったというべきでしょう。中世には古代(形式主義や不平等主義)が依然として残り続け、新しく生まれた現実主義や平等主義と同居するという二面を備えた世界であったのです。
さて戦国時代に力強く育った現実主義は江戸時代、大きく挫折します。それは徳川将軍が儒教(朱子学)を武家社会に積極的に広めたことが原因でした。それは徳川将軍の策略でした。儒教とは古代中国の思想ですが、徳川将軍はこの古代思想を利用して武士から牙(抵抗権)を抜き取り、奴隷化し、専制支配しようと目論んだのです、つまり既存体制の固定化が目的でした。
儒教は古代思想でありますから平等主義というものを備えていません、従ってこの思想は平等主義を隠蔽する、その代わり上下関係を理想化し、上下関係を絶対化する思想です。それは当然、実力主義の排除となり、自由競争を否定し、現状維持を最優先し、それ故既存の体制は揺るぐことなく存続します。
儒教は支配者にとってそして目上に者にとって実に都合の良い思想でした。徳川将軍は儒教をもとに、滅私奉公という奴隷の思想を人々に植え付けました。それはどんな場合にあっても私利私欲をなげうって主君や目上の者に尽くすべし、理想の武士とはそんな武士を指す、と。それは武士に対する絶対服従の要求です、<保護無くしても忠誠すべし>です。それは相対主義の否定です、実力主義の放棄です。しかも江戸時代は平和であり、戦がありませんから武士は実力を揮う機会がなかった。
つまり武士は戦役という重大な義務を果していなかった、それでいて主君から保護を受けている、すなわち土地(米=生活の資)を得ていた。それは決して対等な関係とは言えません。彼らの双務契約はすでに破綻していたのです。結果、武士はその見返りに抵抗権を放棄し、主君へ絶対服従を誓わざるを得なかった。それは哀れなギブアンドテイクでした。そして儒教はこの特殊な状況にぴったりはまった。
徳川将軍は日本社会に根付き始めていた平等主義と現実主義を押し潰しました。それは身分や地位や年齢や性別などの差別の絶対化です。結局、武士は牙を抜かれ、農民や町人とともに二世紀にわたり、いわば奴隷化されたのです。目上の者や権力者に盲従する卑屈な行為が国内に曼延しました。戦国時代に成長した現実主義は見る影もありません。良くも悪くも下剋上という社会が本来持つべき流動性や変革性が失われた社会となり、新しいことや突出することが禁じられ、既存の事柄がひたすら維持される、事なかれ主義の、思考停止の社会が出現しました。当然のごとく日本は進歩や発展から大きく取り残されたのです。実際、19世紀、西欧列強が日本に進出した時、武士は300年前の鉄砲を準備して彼らに対峙したのです。
戦国時代には戻りたくない、武力を行使すべきではない、争いごとを起こすな、徳川はそんな思いをもって儒教を重用したのでしょう、儒教は血を流すことなく徳川の平和を維持するための最適な手段であった。その結果、江戸時代の社会は血の匂いの消えた、治安の良いものとなりました、その代わり鬱陶しい、生ぬるい空気に汚染された社会となったのです。
この固陋な思想の下、日本人は既存の社会制度、産業、文化、生活様式などを守り続けるばかりで、しかし変化、発展させようとはしませんでした。人々は人生を攻めることよりも守ることに徹したのです。その結果、日本は世界の潮流から大きく取り残された。
しかし19世紀、日本人は現代化革命を機に儒教の教えに対し、次第に距離をとっていきます。それは西欧列強の日本進出がきっかけでした、それは平穏な世を一撃し、日本人に厳しい現実を突きつけた。その時、既存の権威や権力は音を立てて崩れていきました。それは価値観の一変であり、かつて人々が戦国時代に経験したことと同じです。これを機に日本人は現実を直視し、現実をもとに行動するようになります。それは戦国時代への回帰でした、いわば日本人は2世紀に渡る長い眠りから覚めたのです。
儒教は道徳を説くことに急で、しかし人の本来の生き方である現実主義と平等主義に無知、無縁です。今日、日本人は形式主義や血縁主義からほぼ解放されています。そして儒教を教える小学校も中学校もありません。
それでも日本社会から儒教の影響がすっかり取り除かれたというわけでもない。というのは儒教の説く道徳はそれなりの力を持っていて、21世紀の今でもその教えは時々、老いた人たちの口の端に上る、そしてスポーツ界や芸能界において年齢に基つく上下差別が少なからず残っています。
一方、東アジア諸国は今も儒教に汚染されています。東アジアの国民は儒教の教えを信じ、物事を上下関係の中でとらえる、例えば先祖と子孫、親と子、主君と従者、統治者と被治者などは一様に上下関係の中に堅く束ねられ、後者は前者に従うべきとする。それは絶対服従の主張であり、上下関係の固定化です。現実主義も平等主義も皆無です。その点、儒教は専制主義を根底から支える思想です。そこには平等主義のかけらもない。
21世紀の今も、中国や北朝鮮では恐るべき専制政治が今も行われています。独裁者や独裁政党が国家権力を独占し、人々の人権を認めず、言論の自由や報道の自由を抑圧しています。しかしそれは儒教に深く影響された国民にとって決して異様なことではありません、権力者が権力をふるうこと、そして国民がそれに服従することは当たり前のことだからです。彼らは2000年に渡り彼らの体に染みついた沈黙の秩序にすっかり慣れている。
そして韓国では人治の濃い民主政治が行われています。韓国は憲法を制定し、議会を運営し、民主主義を確立している民主国です。にもかかわらず、その実態は古代的です。例えば過去50年の間に4人の大統領が次々に逮捕されました。それは大統領在任中に行われた彼らの汚職の故です。大統領の周りには彼の血縁者が群がる、そして臨時の支配者層を形成し、権力を私的に行使する。そこに法治はありません。
さらに韓国では司法権力が確立されておらず、司法の判断が権力者の横やりや国民の集団的興奮に左右されてしまう。あるいは司法の独立が政治家の思惑によって損なわれることもある。これらの悪行は依然として国民が現実主義や法治主義を真に確立できていないこと、そして儒教の唱える血縁主義や権威主義や形式主義から解放されていないことを暴露しています。それは中世を通過していないことの悲劇です。
さて今日、現実主義は新たな敵に脅かされています。それはSNSです。SNSは平気で嘘を拡散する。それは現実主義を支える事実を容易に、一瞬に、そして世界規模において液状化し、個人を、社会を、国をそして世界を混乱に陥れます。人類は現実主義を守るためSNSと上手に付き合う方法を必死に模索しています。
忠臣は二君に仕えず
江戸時代、武家社会に流行った言葉として<忠臣は二君に仕えず>というものがありました。この言葉は理想の武士を表現するもので、その意味はいかなる場合にあっても一生、一人の主君に仕え続ける武士が最高の武士であるとするものです。現在の日本人でさえ知っているほどこの言葉は有名です。そして多くの人びとはこの言葉を理想的な武士の生き方であると理解しています。
しかしそれは大変な誤解です。それは奴隷の言葉です。そんな生き方は本来の武士にとってあり得ない。それは古代世界の生き方です、中世の契約社会には存在しえないものです。
すでに述べましたが、中世に絶対服従は存在しません。中世は<相対の世界>です。例えば、主君への服従はあくまでも相対的なもの(忠誠)であり、主君の十分な保護があって初めて成立するものです。ですから忠臣は二君に仕えずという絶対の言葉は中世武士の言葉ではありません。それでは誰が何のためにそんな言葉を江戸時代の武家社会に流行らせたのか。
この言葉はもともと古代中国の言葉です。しかも役人の言葉であって、戦士の言葉ではありません。それが日本に入ってきた。この言葉は徳川家と徳川家に仕える武士や思想家たちによって巧みに粉飾されました、理想的な武士とは一生、一人の主君に仕える者である、と定義されたのです。それは彼らの企みであり、いわば彼らのプロパガンダです。すなわち彼らは彼らの武士に絶対服従を求めたのです。たとえ主君が暗君であっても、そして武士を十分に保護しなくとも武士たちは奴隷のごとく、彼に絶対服従し続けるべきという要求です。それは武士の自律を阻み、そして武士の抵抗権を奪う試みでした。
江戸時代の武士は例外的な武士です。彼らは平和な時代の武士であり、戦役義務を果せず、それ故、双務契約を誠実に履行できなかった。武士は主君から保護を一方的に受けるばかりで心苦しい、その結果、武士は形式的なこととはいえ一生、一人の主君に仕え続けることを約束せざるを得なかった、そして奴隷的な戦士を演じざるを得なかった。従って江戸時代の武士を中世の武士とは言いにくい。
一方、鎌倉時代や戦国時代の武士は本来の中世武士でした。彼らは主君の奴隷ではありません、そして主君に盲従しません。<忠臣は二君に仕えず>という能天気なプロパガンダなど相手にしません。<保護あっての忠誠>です。主君がまともでなければ、あるいは公正な判断力を欠いていれば武士は主君へ抗議する、あるいは主君を変える、あるいは主君を暗殺します。
抵抗権は中世契約社会の核心です。抵抗権こそが中世社会に緊張感を与え、中世王や封建領主や武士に対し誠実な生き方を強いる、そして根底において武家社会を厳しく成り立たせていたのです。ですから忠臣は二君に仕えずといった(絶対主義の)言葉は中世世界において場違いなものであり、本来、存在しえないものです。
それでもいくら能天気な江戸時代であっても本物の主従関係が消滅することはありませんでした。本来の忠誠は存在し続けていた。それは例えば自らの領国が存亡の危機に陥った時に見られたものです。その時、武士は本来の主従関係を全うしました。
江戸時代における封建領主たちの危機は徳川家によって引き起こされました。徳川も平和令を発し、武力行使を禁じ、治安の維持に努めていました。そのため領国の運営に不真面目な、浪費家の封建領主や酒乱の封建領主を見つけるや否や、徳川は彼を叱責し、彼への保護を打ち切り、そして彼から領主権を取り上げた。それは封建領主の家の廃絶であり、彼の領国の消滅でした。
勿論、武士たちはそんな危機に際し、自ら立ち上がります。彼らは先ず、主君失格な封建領主を責めて、彼を座敷牢に閉じ込める、そして主君の縁者の中から一人を選び、彼を新しい主君として据えます。それは徳川将軍の先手を打つことでした。そうして彼らの領国は危機を乗り越え、安泰を取り戻します。
主君を座敷牢に閉じ込めることは一見、武士たちの裏切りのように見えます、しかしそれは本来の主従関係の実行にすぎません。それは武士の抵抗権の発揮です。主君の保護が十分なものでなければ、武士たちはその主君に抗議する、あるいは彼から離反する、あるいは主君を殺害する、あるいは主君失格者をまっとうな主君に取り替えるのです。
武士たちが主君を選ぶ行為は武家にとって自然なことであり、武家社会の根本のことです。例えば頼朝は関東の領主たちによって彼らの主君として選ばれました。秀吉も家康も中世王はみな、積極的であれ、消極的であれ、封建領主たちによって認められ、国王の座に就いたのです。
それは今日の国民が自分たちに相応しい憲法を求めることと同じです。もしも日本の支配者である憲法が今の時代に相応しくなければ相応しいものに修正します。国民はその憲法を引きずりおろし、修正し、新しい憲法とします。それは国民の抵抗権の表明であり、実行です。現代人も忠誠心を発揮するのです。それは国民の権利であり、そして義務です。国民を十分に保護しない憲法を国民の支配者として据え置くことは不合理であり、時には危険なことですから。
従って江戸時代の武士たちは今日の国民と同じことを行ったにすぎません。それは裏切り行為ではない。それは主君と従者とが運命共同体を構成し、安全の保障を追求し合うことでした。このように平和な江戸時代においても武家の主従関係は細々ですが絶えることなく、存続していました。そして江戸時代末期、西欧列強が日本に進出した時、主君と武士は再び、堅く主従関係を結び、一体となり、滅びゆく旧体制に殉じた、あるいは新生日本のために革命勢力を結集し、混乱の中に身を投げ打っていきました。
中世の政教分離
古代人は一般的に宗教を厚く信じていました。古代日本人も古代王も仏教を信じ、その神秘的な力を崇め、そしてその教えに従っていました。そして古代王は寺僧を支配の共同者として認め、諸政策を執行すると同時に、全国各地に寺院や尼寺を建立し、仏教を厚く保護しました。一方、寺僧は祈りと英知を通じて国家の鎮護を願い、古代王の支配を助けた。それは王法仏法両輪論として知られています。
寺院は免税権を与えられていました。寺院は共同統治者であったから古代王は寺院から税をとりませんでした。その名残は今日の日本にも見受けられます。宗教法人は本来の宗教活動において得た収入が非課税です。
しかし古代王と寺院との新密な関係は次第に変わっていきました。それは荘園制の発達が原因でした。多くの荘園を獲得することによって寺院は独り立ちしていくのです、それも信仰の世界から俗世に軸足を移動しながらです。
寺院は大規模な荘園を多数、開発し、有力貴族と並ぶ大荘園領主となります。その上、寺院には貴族や封建領主や有力農民から多数の開発農園が寄進された。寄進荘園です。その結果、寺院は増長します。彼らは荘園から手に入れた莫大な富をもとに金貸しを営み、蓄財に励む、さらに多数の僧兵を擁し、武力をもって自らの広大な荘園を支配しました。最早、寺僧と武士の区別はありません。
寺院はさらに変貌しました。11世紀は古代王朝の衰退が始まり、武家が台頭する時期でした。社会は大きく変わり、既存の秩序が失われ、争乱は全国的に多発し、人々は不安と恐怖に襲われていました。そんな時代背景の中、日本には仏教の新興宗派が次々に誕生しました。法然(1133-1212)、親鸞(1173-1263)、日蓮(1222-1282)などの高僧が現れ、全国を行脚し、仏教の新しい教えを人々に説いて回りました。現世の暮らしに苦しむ多くの人たちは来世の平安を求め、仏教の信徒になりました。その結果、寺院は古代王や貴族だけではなく、当時の社会の下層にいた農民、商人、職人そして武士を新しい門徒として獲得します。
15世紀、寺院と信者は一体化していきます。彼らは信仰を通じてだけではなく、共通の現世利益を求めて結合し、そして武家支配に対し共闘した。信者たちは寺院を中心として集まり、そこに巨大な教団領国を形成する、そして土地や財産や権利をめぐり、武家と争った。教団領国は最早、封建領国と同じでした。
新鸞の像
鎌倉時代前半から中期にかけて活動し、仏教の新しい宗派を開いた仏教家
こうして寺院は経済力と武力に加え、多数の門徒を手に入れたのです。門徒たちは厚い信仰心を有した戦士でした、彼らは寺院の要請に従って武器を持ち、寺院の敵と激しく戦った。教団領国は最早、武装集団でした。実際、北陸の地では一向宗の信徒たちがその地の封建領主を駆逐し、彼らの教団領国を築き、そしてその領国は近隣の武士の攻撃をも防いで約100年間、存続しました。
寺院はすっかり変わりました、信仰の世界に生きるよりも現世に執着し、荘園の利権をめぐる争いや他寺院との勢力争いに明け暮れていたのです。寺院は将軍や封建領主とも争い、あるいは彼らと合従連衡を組んで他国を攻撃さえしました。寺院は最早、祈りの集団ではありません、しかしそれは巨大な武装集団です。仏法王法両輪論などは見る影もありません。
すでに室町幕府は崩壊し、領地安堵を行う中世王は不在であった。国内は群雄割拠の世界となり、戦国大名は自国の維持と拡大にしのぎを削っていました。そんな戦国大名にとって寺院は武家の進路を妨害する厄介な武装集団でした。
戦国大名、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちは有名です。信長は彼の戦略をもとに軍を進めていましたが、その進路を遮るように教団領国が立ちふさがりました。彼はそれを容赦しなかった、彼の武士たちはその寺院を攻撃し、寺僧たち、門徒たち、女、そして子供まで数千人を殺しました。寺僧の大量虐殺は当時の信心深い人々を驚愕させた。さらに信長は軍を進め、北陸の地を長年、支配していた教団領国をも粉砕しました。それは寺僧が本来の仕事である信仰活動をおろそかにし、そしておごり高ぶり、武家の支配に介入した結果です。結局、寺僧と農民は戦のプロの前に敗れ去ったのです。
これは一種の宗教改革となりました。現世勢力を失った寺院は本来の信仰の場に戻ったからです。寺院は最早、武家の支配に介入しません。寺僧は刀や鉄砲や弓を捨てる、門徒の動員も行いません、そして本来の仕事である祈りと経典に生涯をささげます。それは日本史上における政教分離の成立でした。
すでに述べましたが、秀吉は戦国日本を制し、新しい日本を築いていきました。それでも彼は依然として仏教への厚い信仰心を持ち、寺僧の優れた意見に耳を傾けることもあった。しかし信心深い秀吉も最早、寺僧の政治参加を認めなかった。寺僧は日本の共同統治者ではない、政治は武家のみが担当し、武家が現実を直視して行うものとなっていた。信仰と政治との明確な区別です。
鎌倉時代以来、封建領主たちは人々に信仰の自由を認めていた。そして秀吉も人々が仏教のどの宗派を信仰しても構わないとした。しかし秀吉はキリスト教だけは認めなかった。何故なら当時、キリスト教は政治と一体であったからです。スペインやポルトガルの宣教師たちは日本において布教活動をするだけではなく、本国の指示に従って日本侵略の先兵となっていたからです。
秀吉は戦国時代、寺僧と信徒たちが一体となって武家と激しく戦ったことを忘れていなかった。厚い信仰心と武力の結合は支配者にとって悪夢であった。ですから秀吉は宣教師たちがかつての寺僧と同じように信徒を動員し、武家支配に挑戦するかもしれないと恐れた。その結果が宣教師の国外追放であり、信徒たちの虐殺であった。
秀吉の後を継いだ徳川はオランダに対してだけ、貿易を許可した。何故ならオランダはプロテスタント国であり、すでに政教分離を果していたからです、オランダ商人は貿易と宗教を絡めることなく、商売だけを日本に求めていた。
以上の事からわかることですが、人類の歴史は政治の進化でもあったということです。それは政治の領域から悪党どもを逐次、排除し、政治の自立と尊厳を確保することでした。悪党とは政治家に群がり、国家権力を私的に利用し、不正や汚職をする者たち、そして政治の自立を脅かす者たちです。例えば、それは政治家の血縁者、縁故者、特権者、宗教家、そしてやがて大きな力を持つ経済人、軍人、そして衆愚などです。
21世紀の民主国は1000年を費やし、それらの悪党を一つずつ退治して、政治の自立と純粋性を確立してきました、政教分離はその好例です。それでも残念ながら、民主国において汚職が完全に消えたというわけではありません、それは時々、発生し、その時、マスコミは一斉に非難の大合唱をする、そして悪党は犯罪者として裁かれます。
一方、専制国では多くの場合、政治は自立していません、政治と悪党は一体です。政治家自身が不正や汚職をする、そして国家権力や税金を身内の者や宗教者や有力な商人などと組み、勝手に分かち合う。しかしマスコミはこの醜態を非難せず、国民も沈黙を続けます。
江戸時代、徳川将軍は寺院を統制する法を造り、寺僧を厳しく統制しました。そして寺僧の役目を祈りと学問に規制しました。寺院は現世から切り離され、政治から無縁となりました。門徒も最早、武器を持ちません。
現代日本は憲法において信仰の自由が認められています。そして政教分離は確立し、宗教教団の現世勢力の政治への介入は固く禁じられています。
政教分離は中世西欧においても断行されました。16世紀あたりから始まったことですが、宗教改革、30年戦争、そしてウエストファリア条約などを通じて中世王や封建領主の武力が現実を支配し、宗教勢力を次第に駆逐していきました。それは中世王と聖職達が共同で統治する時代から中世王が聖職者たちと決別し、自立する時代へと至る歴史的な移行でした。特にプロテスタントの国々においてローマ教皇や教会はその現世勢力を急速に失っていきます。そして中世王たちは聖職者たちの介入を排して、現実主義を徹底し、彼らの王権の強化を図っていきました。
一方、古代国の多くは21世紀の今も<政教一体>です。例えば、<信仰の自由>がありません。政治家や権力者は特定の宗教や宗派だけを認め、その信者を様々な面で優遇する、一方他の宗教や宗派を信ずるものを非難し、排斥します。そのことによって自分の政治勢力を拡大するのです。そこでは政治と宗教とが「持ちつ持たれつ」の関係です。
あるいは政治家は特定の宗教の教義を至上のものとしてすべてのものの上に置きます。それは危険なことです、一種の専制政治です。それでは法が正常に機能しません、そして国会も国会議員も不要となります。そんな政治家は原理主義者と呼ばれている。
イスラム教国には民主制を目指す政治家もいます。彼は教義の代わりに憲法を制定し、法治国を樹立しようとする。そして信仰と政治を切り離し、平等主義や現実主義をもとに国家を運営しようとします。しかし原理主義者はこれを西欧化として非難します。
今日、古代国、特にイスラムの国々はこの二つの相反する主張の間で揺れ動いている、それ故、国家は二分され、不安定な運営が行われています。それは中世を経験せず、政教分離を果していないことからくる必然的な結果です。
何故、イスラム教国において政教一致が当然のように行われているのかといえばそれはイスラム教の持つ特異性故です。イスラム教は精神の救済を目的とするだけではなく、衣服や食事や禁酒や刑罰の規定など現実の生活を細かく規定し、現実世界をも救済しようとしているからです。
その点、イスラム教は教義であり、同時に憲法です。従ってイスラム教の指導者は聖職者であり、同時に政治家です。それは仏教やキリスト教と大きく異なります。古代日本や古代西欧のように宗教と政治が一体化する特別の現象は起きません、何故なら二つはそもそも一体なのですから。それはイスラム世界の現代化を根底的に阻んでいる。
農民たちの村自治
一般的に荘園領主はいくつもの荘園を所有していました、そしてそれぞれに徴税人を配置し、年貢を取り立てていました。徴税人は荘園領主の代理人かあるいは請負人です。特に請負人は時代とともに変わりました、例えば下級貴族、有力農民、武士、寺僧、商人などです。そうした荘園の請負者は荘園領主と農民との間に位置する中間管理者であり、彼らの多くは様々な口実を設け、年貢を横領していました。
室町時代、荘園領主は農民自身に年貢徴収を任せました。それは画期的な方式であり、中間管理者を排除するものでした、代理人も請負人も置きません、その方式がとれたのは農民たちが成長し、強い結束力を示していたからです。実際のところ、荘園領主が頼れる者は農民だけであったといえます。それは窮余の一策でした。荘園制が始まってからすでに600年以上が経過していました。
しかし室町時代は荘園制の崩壊する時代です。14世紀から15世紀にかけて鎌倉幕府の滅亡、南北朝の争い、そして足利将軍家の内紛など国家支配をめぐる事件や紛争は打ち続き、国内は混乱を極めていました。その混乱に乗じて武士や悪党は荘園の簒奪を繰り返していた。そんな時代を背景として荘園領主は再び、新しい請負人を雇います。それが守護でした。
すでに述べましたが、守護は室町幕府の下、各地方に配置されていた治安維持の司令官です。荘園領主は無法の時代にふさわしい強面の請負者として彼らを選んだのです。しかしそれは危険な選択でした、そして守護は荘園領主にとって最後の請負人でした。
室町幕府は守護に治安維持の司令官の役目だけでは無く、荘園訴訟の判決を執行する執行官の役目をも与えました。幕府によるこの委任は事実上、将軍が守護にその地の領主権を与えたことに等しい。守護は強権を握ったのです。
その結果、守護は多くの兵士を集めます、そして係争中の荘園に進出し、武力と大権をふるい、合法的に荘園の所有権を奪い、次々と荘園を手中にしていきました。それは荘園の管理者が荘園の簒奪者へと変身することでした。それは権力の乱用に見えます、しかしそれは歴史の必然として許されることでした。守護の横暴は歴史が認めることです。
戦国時代は日本史上、最大の内乱の時代でした。
古代王朝も室町幕府も崩壊し、そして中世は大きな転換点に差し掛かった。それは二都時代の終焉でした。古代王の支配と武家の支配とが並立する特殊な時代は消えて、武家のみが日本の支配者となる時代がようやく訪れたのです。中世は一段と純化され、武家の支配は強化されていきます。
戦国大名は新期の封建領主として新しい税制度を追求しました。それは彼らが手に入れたおびただしい荘園から富を得る方法の確立です。それはすでに述べましたが、秀吉の制定した石高制です。それは画期的な税制度であり、納税の仕事をすべて農民に任せるものでした。但し、その方式は荘園領主がかつて行っていたものとは決定的に異なるものでした。
封建領主は武士と双務契約を結んでいましたが、この時、彼らは村(農民たち)とも双務契約を交わしたのです。それは封建領主と農民たちが安全を保障し合い、運命共同体を形成することでした。戦国大名の義務は村を周囲の敵から守り、農耕の安全を保証する。一方、村は毎年、戦国大名に年貢を納め、領国の財政を保証する。それはかつて関東の地の頼朝と封建領主たちとが手を握り合ったことに似て、無法の地における二者の協力行為であった。
この契約は封建領主と農民を対等な立場にした。年貢をとる者と年貢を納める者とが対立を乗り越えて、日本史上初めて対等になったのです。何故、村は戦国大名と手を組んだのか、それは荘園制の崩壊の結果です。すなわち荘園領主の消滅は荘園管理人の消滅でもありました。管理人の多くは悪人でありましたが、それでも村を守る役目をそれなりに果たしていました。その管理人が消えたのです、村は丸裸の状態です。
村には一人の支配者もいません。村は一時的でしたが、権力の空白期にあたっていたのです。当時の村は荘園領主の支配から封建領主の支配へと移行する過渡期にあった。新しい支配者となる封建領主は未だ、村支配への途上でした。
農民たちは自分で村を守らなければいけません。しかし国内は無法の地であり、村の周囲には常に武士や悪党や盗人がうろついていました。さらに近隣の封建領主同士が合戦を始め、それに巻き込まれるなら村は破壊されます、村人の家々は放火され、田畑は荒らされ、収穫物は奪われます。
ですから農民たちは近隣の封建領主に保護を求めたのです。戦国大名の持つ武力をもって村を守ってもらう。村はその見返りとして毎年、その戦国大名に年貢を納める、そして戦時には兵士を提供します。若い農民は封建領主の戦力の一部として戦争に加わり、戦闘の下働きをしたのです。
一方、封建領主もまた村との双務契約に活路を見出していました。何故なら年貢は大名の財政基盤を支えるものであり、戦を続けるには必要不可欠なものです。毎年の、そして定期的な年貢こそ大名の生命線です。そして村が安全であれば農作業は計画通りに進行する、そしてそれは豊作をもたらすはずです。そのため封建領主は積極的に村を支援した、例えば新しい農耕技術を農民たちに教える、あるいは新しい作物を紹介しその栽培を奨励するなどです。
従って、農民にとって納税は最早、服従と屈辱の象徴ではありません。納税は自らの安全を自らが確保するための手段、武器となったのです。それは農民を真に自立させるものでした。それは現代人が納税や教育の義務を果たすことによって国家から安全を得ることと同じです。それは屈辱ではありません。
さて封建領主と荘園領主は農民に対する対策において大きく異なっていました。荘園領主は村と双務契約を結びませんでした、何故なら彼は農民たちを保護できない、彼には村を守る武力がないからです。そしてそのことよりもむしろ彼には農民たちを守るという発想がないのです、何故なら彼にとって農民とは奴隷ですから。勿論、彼には双務関係という中世の平等主義を理解する力がありません。荘園領主は古代人です。彼にとって対等な人的関係というものは理解の他でありました。しかし時代は最早、契約社会です、時代は絶対者という者を認めなかった、その存在を許さなかった。従って荘園領主は淘汰されるべき過去の存在と化していたのです。それは精神の弱さ故に、人々が進化しない例です。そして進化しない者は淘汰されます。歴史は妥協を許すことなく、人々を支配し、その意志を貫徹したのです。
封建領主は村を支配した、そして同時に村と対等な関係を築いていた。少なくとも双務契約上、両者は対等です。そのため封建領主は村が年貢を未納しない限り、あるいは村が彼の領国に悪影響を及ぼさない限り、村の自治を保証しました。領主にとって年貢こそ領国の生命線です。武家は根底的に農民に依存している、農民が米を作らなければ、武家は成り立つことができません。
勿論、封建領主は支配者として様々な命令を村に対し、発しました。その命令は農民が農耕に真剣に取り組まない場合、農民が年貢の納入義務を果さない場合、あるいはその恐れのある場合に限りました。その他のことは農民の自由であり、武家があれこれ言うべきことではなかった。
従って約束通り、年貢さえきちんと納められるのなら領主は農民に注文を付けません。農民はそんな武家の複雑な立場を察していますから、領主の命令に絶対服従することはなかった。そしてその命令が厳しすぎるもの、あるいは見当違いのものであれば農民は逆に領主を非難する、そしてその命令を撤回させることさえありました。
四季農耕図屏風(国立歴史民俗博物館蔵)
自律と日本社会
村は農民たちの国です。彼らは農耕を通じて富を蓄積し、その中から年貢をねん出した。そして画期的なことですが、農民は自由を得ました。村内に限るものですが、村人は自由の喜びを味わった、そこで何を話そうと、何をしようと自由です。年貢の納入だけではなく、農耕の準備や収穫、水利の調整、調停や村祭りなどすべては農民の自由でした。農民は農奴という立場から解放され、封建領主や武士と同様、生存権を手に入れたのです。それは農民権の誕生でした。
封建領主は領主権を得た、武士は武士権を得た、そして農民は農民権を得たのです。中世人はそれぞれ人権を手にしたのです。それは日本史上、画期的なことであり、日本が大きく一段、進化したことを表しています。(武士権、農民権は筆者の造語です。)
村自治は西欧諸国の都市自治に匹敵するものです。規模や内容は大きく異なりますが、自治が行われたという事実は同じですから。そして当然のことですが、村内の農民はみな対等でした、村には支配者も支配階級も存在しません。従って村の主権者は農民自身です、しかし農民たちは彼ら自身を支配する真の支配者を造りました。それが<村法>です。村法は村を運営するための指標であり、そして村生活を送る上での基準です。
それはかつて関東の地の封建領主たちが権威を創出するために頼朝を選んだことに似ています。何故なら村にも関東の地にも絶対者が存在しなかったから、そしてそれ故、皆が従い、秩序を形成するものを創出しなければいけなかった。それは中世らしい出来事です。そして村人たちは村法を造り、法治を実施し、一方、封建領主たちは頼朝を支持し、人治を行った。
村は村法の下、運営されました。村法には村の年中行事、農民たちの共同作業、盗みや博打の禁止、村の休日(毎月、5日から6日)そして罰則などが定められました。農民たちは寄合を持ち、村内の諸問題を討議し、多数決をもって処理した、そして村内部で解決できない事柄については彼らの封建領主と相談し、あるいは交渉し、あるいは一任しました。
従って村は規律を持った集団です。村法は厳しいものであり、村内部で悪事を働いた者、そして村を混乱させた者は村法に則って裁かれます、そしてその者と家族は村から追放されました。そうした村自治は二世紀以上にわたり行われ、農民たちに自治精神と順法精神を叩き込んでいったのです。
農民たちは時代を先取りしていました。中世において法治を実践していた者は農民たちだけでした。何故なら、武家の統治は人治でした。武士たちの最高支配者は法ではなく、中世王であったからです。
尚、村では田畑を所有する農民のみが村の運営に携わりました、運営に参加する資格があったのです。しかし村には少数ですが、田畑を所有しない小作人もいました。彼らは正規の村人とはみなされず、そのため村の運営に参加することができませんでした。こうした村社会は一見、不平等な集団に見えるかもしれません。しかしそれは中世の村の問題でもなく、中世社会の問題でもなく、身分制の問題でもありません。この差別、あるいは区別は現代社会にも存在するものであり、人類の永遠の課題といえるものです。それは平等主義と現実主義が厳しく相克する姿です。
民主的な観点から見れば国際連合は中世の村以下です。国際連合は平等主義を高らかに謳いあげています、しかしその組織は不平等なものです。少数の国家が特権国であり、国際政治を一方的に仕切っています、その他の一般国は彼らの指示に従わなければいけない。それは古代や中世の支配体制と同じ人治です。(少数の大ボス、小ボスを排して<世界法>が世界の真の支配者となる法治の世界はいつ、訪れるのでしょうか。)
村は農民たちが共同で所有する共同体であり、しかし個人のものではありません。それは公というものが農民たちの前に現れたということです。その時、農民たちは個人のために生きると同時に、公のためにも生きることになります。それは村自治を維持し、彼らの獲得した自立と自由を守り抜くためです。
さて自治の核心は農民たちの結束です。中世世界において農民たちの結束は自治の存否に関わる重要なものでした。例えば結束の欠けた時、村は困難に直面します。農民たちの不和は外敵の侵入を誘発するからです。すでに述べましたが、戦国時代、村の分裂を好機と見た近隣の村や武士や悪党が村に侵入し、農民を殺害し、略奪を繰り返した。実際、農民たちはこれまで結束を欠いたために恐ろしい経験を幾度も味わってきた。
江戸時代においても結束は重要なことでした。村はコメの生産を目的とします、そして田植えや水管理や刈り取りの多くは村人が協力し、行うものでした。従って農民たちの不和や村の分裂は村に致命傷を与えます、それは農耕の共同作業を困難にするからです。その結果、豊かな収穫は遠のき、何よりも封建領主への年貢納入が危うくなる。年貢の納入は彼らの契約義務であり、村に自立と自由をもたらすものです。ですから農民たちは常時、村の結束に真剣に努めていたのです。
農民たちは公を認めることによって新しい生き方を身につけました。それは個と公という新しい関係に対処することです。そして農民はこの関係をうまく処理する方法を獲得します。個人の主張と公の維持や利益とがきれいに重なる時もあれば、逆に二つが衝突する場合もあります、特に個と公とが衝突する場合、彼らは自制というもの、妥協というものを学習した。それは公のための自制です。そして彼らはこの難しい生き方を二世紀以上にわたり生き、個と公を自在に均衡させるという能力を身につけます。それは自らを制御する自律の力であり、自治精神の核心です。
村に起きた問題は多くの場合、農民たちの多数決をもって処理されました。それは問題を明快に処理する手段ですが、いわば勝者と敗者とを明らかにすることでもありました。その時、敗者となった農民たちは自分の主張に固執せず、負けを認め、村の体制に従いました。それは彼らが公のために自制するからです。
農民たちは皆の合意を得るために必要と思われる場合、自制に努め、自らの主張を撤回しました。あるいは彼らは知恵を絞り、いろいろな妥協策を練って、粘り強く合意の形成を目指した。こうした妥協や主張の撤回は一見、敗北や服従に見えるかもしれません、しかしそれは単なる敗北ではない、何故ならこの撤回は村を一つにまとめ、村の秩序と自由を保障し、そして外敵の侵入を防ぐ、あるいは封建領主の介入を封じるからです。
農民たちは村内の問題を多数決だけではなく、調停をもっても解決しました。それは和解を求めることです。例えば、二人の農民が何かの原因でもめた時、それを解決する手段として調停が行われた。それは<二者の同意>を得ること、すなわち当事者たちが自制をもって妥協することでした。調停は問題を解決するだけではなく、当事者達から憎しみを取り除き、村のまとまりを維持するために大いに役立った。
そして村内のほとんどのもめごとはそうした調停において解消されましたが、どうしても解消できない場合、農民たちはそれを彼らの封建領主に任せ、裁判をもって解決した。
多数決や調停は二世紀に渡り、全国の村において実施され、自制は物事を解決する必須な手段の一つとなりました。そして自制は寄り合いや調停の場においてだけではなく、やがて日常の生活においても定着するようになります。
農民たちは常日頃から自らを律し、村の秩序を壊すことのないよう心がけた。彼らは相手や周りと摩擦や確執が起こらないように、他者への配慮に努め、丸く生きるようになる。社会全体の調和を大切にする生き方です。そして人びとは集団合意や妥協をほとんど意識せずに、当たり前のように、まるで呼吸のようにおこなうようになります。
村自治はやがて明治維新を経て<国自治>へと発展します。国自治とは国家規模の法治のことであり、民主政治のことです。村自治も国自治も規模の違いはあるものの、等しく自治精神の上に初めて築かれるものです。中世を脱したばかりの明治時代の日本人が民主政治を速やかに理解し、完全な形ではありませんでしたが、それでもそれを運営できたことはすでに彼らが自治精神を身につけ、必要な場合、自制を働かすことができた、そして国民の結束を可能としたからです。その点、中世の村自治は日本の民主制の母体といえます。
日本社会は一般的に平穏で、調和のある表情をしています。現代の日本人が中世人の生き方を引き継いでいるからです。日本社会は紛れもなく中世社会の上に成立しています、700年間、続いた分割主義と200年間、続いた村自治が今も日本社会に深い影響を与えています。
ところで集団合意を得意とする人々の生き方は独特な特徴を日本社会に与えました。それは例えば、人々が控えめに自己主張をすること、物事の取りまとめに多くの時間を要すること、人々がはっきりとした物言いではなく、婉曲な話し方をすること、責任の所在があいまいに見えること、独裁的な集団運営を嫌うこと、他者との平等な関係を重視し、それに固執することなどです。これらは世界の人々がしばしば指摘する日本社会の特性です。一方、厳しく言えば率直さ、迅速さ、そして果断さが日本社会に不足しているといえます。
それらは良くも悪くも集団合意を速やかに得るために培われた習性です。それでも集団合意は人々のうちに相互信頼を育む、そしてその結果、秩序は自然に形成され、平穏で、治安の良い、そして結束力の有る社会が出現する、そして国家事業や種々の共同作業が極めて迅速に、そして効率よく進む。
といってもこの説明はあくまでも日本社会の一般的な傾向を示すにすぎません。というのは日本社会から強力な指導者がいなくなったということではありません、特色ある意見が消えてしまったというのでもありません、あるいは社会から不正がなくなったということでもありません。
日本人は皆、自分の考えを持っています、そしてそれを(控えめながらも)主張します。日本には強力な指導力を発揮する政治家がいます、驚くべき発明、発見をする学者もいます、異色の画家や文学者もいます、そして法を犯す日本人もいます。
日本は決して個性の消失した国ではないし、自己主張の消えた国でもない、そうかといって日本は天国のような平安な国でもない、ただ他者を認めること、他者に配慮すること、そして結束することに得意な国であるということです。
そしてそれは日本が中世の精神を恐らく、世界で最も忠実に受け入れたということではないでしょうか。日本は中世的な現代国なのです。
日本社会は海外の人たちに謎めいたものと映っているばかりか誤解も受けています。特に古代国の人々は日本人の集団合意を誤解しています。彼らは日本人の集団合意を敗者の行為あるいは服従の行為ととらえます、すなわち日本人の速やかな結束を人々が独自の意見を持たず、権力者に盲目的に従う、それはまるでロボットの結束のようなものであると誤解する。
何故なら古代人の結束は独裁者の暴力と権力によって強制的に造られたものです、そして古代には自治体がありませんから、人々は自発的な結束や集団合意に無縁であり、公のために生きることを経験していません。ですから日本人の公のためにする自制は彼らにとって理解の他なのです。彼らは日本人の集団合意を自分たちと同様に、権力者によって強制的に造られたもの、あるいは無能者たちの単純な一致と解釈せざるを得ないのです。彼らのこの理解不能の状況は現代人と古代人との間に存在する越えがたい隔たりを象徴的に表しています。
不完全な平等主義
中世人は成り立ちました。武士も農民も町人も皆それぞれ土地を確保し、成り立ちました。それは素晴らしいことです。しかし残念ながらその成り立ちは完全なものとは言えませんでした。何故なら中世の支配者は<人>であったからです。武士、農民、町人は依然として封建領主の支配下にありました。
残念なことですが、人は常に名君とは限らなかった、封建領主は時々、あるいはしばしば彼らの勝手な都合から武士の武士権、農民の農民権そして町人の町人権を冷酷に侵しました。それは人治の決定的な欠陥です。
人はいい加減です。人治はいい加減です。支配者が人である限り、平等主義も現実主義もガラスのように繊細で、脆かった。ですから中世人の獲得した権利は不完全なものであり、彼らの平等主義や現実主義は中途半端なものでした。
中世初め、武士は中世化革命を起こし、専制主義と戦った。彼らは領主権を導入し、王権を分割し、専制主義に対する第一回目の打撃をおこないました。しかしそれは専制主義をある程度弱体化させたが、消滅させるまでにはいかなかった。
何故、専制主義は生き延びたかといえばそれは支配者が依然として人であったからです。すなわち専制主義の殲滅は人治の廃止が必要不可欠でした。哀れな事実ですが、人権が確かに保障されるには支配者が法でなければならない。支配者が古代王や中世王や封建領主などの人である限り、専制主義の暴発は止むことがない。ですから専制主義への第2の打撃、すなわち人治を全面的に排除する現代化革命は人権を確立するためには必須なことであった。
それでは中世に生じた専制主義の事例をいくつか紹介します。一つは封建領主が部下の武士権を踏みにじり、その結果、武士の怒りをかい、暗殺されるというものです。そしてもう一つは封建領主が農民権を無視し、農民に重税を課したというものです。
先ず、最初の事例です、それはわずかではありますが、中世日本に起こっていた。例えば織田信長の場合です。彼は有力な戦国大名の一人でした、いくつもの戦いに勝利するばかりではなく、室町幕府を打倒するという、時代を画す決定的な仕事をした、そして新しい日本の支配者となることを目指した。
しかし彼は野望を達成できなかった。何故なら彼は部下に暗殺されたからです。それは日本史上、有名な暗殺事件の一つです。戦国時代、武士たちは主君によって酷使されながらも命を懸けて敵と戦い、華々しい戦功をたてていた。そして主君からそれなりの評価を得て、新しい領地を与えられました。それは双務契約が誠実に履行された例であり、主君と従者との正常な関係といえます。しかし信長は違った、彼は武士権など眼中になかった。
信長は武士たちの見事な戦功を正当に評価せず、彼らに新しい領地を与えなかった、その上、武士たちが苦心して獲得した領地を戦功をたててもいない彼の息子たちに与えた。それは武士を奴隷扱いすることであり、自らを古代王に見立て、そして織田家の古代王朝を造るようなものでした。武家の双務契約は無慈悲に破棄されていた。
それは中世にあってはあり得ない専制統治です。それは醜い血縁主義であり、双務契約の核心である平等主義をあからさまに否定する所業でした。信長は中世の鉄則である相対主義を破ったのです。従って保護が消えれば忠誠も消えます。武士は不誠実な主君に背を向ける、そして抵抗権をふるい、彼を殺害した。それは中世世界において必然の結果であり、専制主義を決して許さない中世人の意志の表明でした。信長は時代錯誤の裏切り者です。
このような事変は中世において稀に生じましたが、それは封建領主の生来の性格、あるいは特殊な時代背景にその原因が求められるでしょう。通常、多くの封建領主は武士権を尊重して、双務契約を忠実に履行し、武士と運命共同体を形成していたのです。いずれにしても中世が人治である限り、人々はこうした封建領主による突発的な専制支配から逃れることはできなかった。
もう一つ、封建領主が人々の権利を踏みにじり、人々を苦しめた事例があります。それは残念なことですが、中世後半において全国各地で起こっていたものです。平時において封建領主は農民たちの生存権や財産権を認め、時には彼らの農耕を手助けし、彼らを厚く保護していた。それは素晴らしい中世の一面です。
しかし領国の運営に失敗し、特に財政危機に直面した時、多くの封建領主は豹変しました。彼らは農民を恐喝した、彼らの自治を無視し、彼らとの双務契約を破棄し、農民権を踏みつぶし、過酷な年貢の取り立てに走った。
江戸時代における貨幣経済の急速な発達は日本を消費社会に変えていました。町においてたくさんの商品やサービスが出回った。そして当然のことですが、武家もそんな社会の中で日々の支出を加速度的に増やしていった。しかし武家の収入は限られています、年貢だけです、従って武家の多くは経済的に困窮したのです。
基本的に武家は税収を農民だけに依存していました。それは農本主義といわれるものです。年貢こそ彼らの収入であり、従って税収の増加とは年貢の増加を意味しました。すなわち武家は農民を恐喝し、彼らに重税を課し、彼らから税をむしり取ることしかできなかった。それは勿論、農民を裏切ることでした。その結果、農民は収穫物の大半を収奪され、食べるものにも事欠き、農具さえ質入れして飢えをしのぎます。村は瀕死の状態となった。
しかし武家は商人から税(商売から得られる所得税)をとろうとはしませんでした。それは農本主義の故であったかもしれません、あるいは見下していた商人から税をとることにためらいがあったのでしょうか、あるいは現実問題として商人たち一人一人の商売の中身を調べ、彼らの利益を確認することが不可能であったからでしょうか。武家は戦闘に長けていましたが、商活動には暗かった。
いずれにせよ商人は免税権を得ていた、そしてこの免税と自由な商活動は商業を急速に発展させ、そして幾人もの豪商を輩出していった。そして江戸の町は武家の町から町人の町へとその姿を変え、武家の肩身はますます狭いものになっていきました。社会を動かすものは最早、武力ではなく、金力でした。
封建領主の行った農民への裏切りはもう一つありました。それは彼が自国内に専売制を布いたことです。封建領主は砂糖や塩などの必需品や地域の特産物に注目し、その生産や販売を独占した、それは大きな利益をもたらすものでした。その結果、彼と一部の特権商人は大儲けします。一方、その生産や販売を禁じられた農民や商人は生活の糧を失い、生死の境をさまようことになります。
さらに言えば農民を苦しめていたものはもう一つありました。それは封建領主の従者である代官(地方役人)です。江戸時代後半、武家の支配体制は緩みます、その結果、地方支配を担当する代官はすべてとはいいませんが、村に対し、権力を乱用するようになっていた。本来、代官は村の自治を認め、農民たちの自主性を尊重すべきでありましたが、彼らはそれを無視し、かつて荘園領主の下、荘園徴税人がしたように過酷な年貢の取り立てを行った。
当然のことですが、重税、専売制、そして悪代官という圧政は農民を敵に回しました。それは農民たちの農耕の意欲を削ぎ、結局、コメの収穫量を減らし、年貢の納入をさらに危ういものにした。
封建領主の恐喝は村を荒廃させた。農民たち、特に貧農の多くは農業をあきらめ、わずかばかりの農地を売り、村を捨て、町へ移動し、商売を始めたのです。それは農耕の放棄であり、そして身分制の形骸化でした。封建領主による双務契約の破棄は結果として農民ばかりか封建領主をも生存の危機に追い込むことになった。中世は液状化を始めたのです。
封建領主の圧政は専制主義のありえない噴出でした。いくら儒教を学び、道徳を理解しようと、封建領主は恥知らずにも恐喝を働いた。それは人治がいかに危険なものであるか、中世の人権がいかに脆く、そして中世の平等主義がいかに不完全なものであったかを如実に示しています。
自然なことですが、江戸時代後半、日本全国に多くの農民一揆が吹き荒れました。農民たちは抵抗権を行使し、近隣の村々と手を組み、あるいは町人をも加えて、そして時には武器を携え、悪辣な封建領主に激しく抵抗しました。しかしそれらの一揆は単に一揆として終わり、全国規模の革命へと発展しなかった。
中世末期の日本と中世末期のフランスとは異なる歴史を歩みました。中世日本において農民一揆が一揆として終わった理由は中世日本の支配者層が内部分裂せず、徳川と封建領主たちは依然として堅く一体であったこと、そして協力し、農民一揆を制圧したことです。もう一つは一揆が封建支配を打倒するためではなく、封建領主の悪政を正すことにあったからです、農民たちは封建領主の首を狙ったのではなく、税率を下げることだけを目指した。その点、日本の中世社会にはまだゆとりがあったのです。
中世は古代と現代の間で微妙に均衡を保っていました。すなわち古代の残酷な上下関係と現代の(法の下の)完全な平等主義との間で不安定に揺れ動いていたのです。そして不幸なことですが、度々古代の側に大きく振れました。
歴史研究者の方々はしばしば中世の暗黒面を強調します。例えば、江戸時代の封建領主による農民への圧政を並べ立て、農民の悲惨な生活を詳細に描写する。それは日本の封建社会を糾弾するような論評であり、そのため今日、多くの日本人は中世日本を否定的にとらえています。
しかし研究者の方々は農民の自治や自由についてはほとんど語りません、村に独裁者は存在しなかったこと、農民は村法を造り、それを村の支配者としたこと、農民が寄り合いを持ち、多数決で物事を決めたこと、農民は自治精神や順法精神を育くんだこと、農民は調停を行い、和解を重視したこと、2か月にわたる伊勢詣でを楽しんだこと、村人の間で温泉番付が人気であったこと、平時において封建領主は村に介入しなかったことなど。
つまり研究者の方々は村の全体像ではなく一時の現象だけを描いている。農民の明るく、余裕のある生活や村の法治主義や中世の分割主義はほとんど紹介されていません。それは中世日本を見下すという悪意を持った歴史解釈であり、歴史はぶつ切りにされ、暗黒面だけが選ばれ、そしてさらに暗く脚色されている。
繰り返し述べてきたことですが、中世は二重性を持っています。中世は古代的な悪い面と現代的な優れた面と相反する要素を持っていたのです。そして中世の悪い面はまさに古代の専制を彷彿とさせます。今日、人々がしばしば専制主義と封建主義を混同し、古代国と封建国を同一なものとして論じますが、それはこの中世の二重性を精確に理解していないため,すなわち暗黒の中世を中世の全体像と誤解してきたからです。そして研究者の方々は人々のそうした誤解を解くことに消極的でした。
研究者の方々はこの農民圧迫を中世日本の悪として描くのではなく、中世の二重性の観点から説明すべきです。そして中世の優れた面をも指摘し、中世日本の村の全体像を精確に表現すべきです。さもなければそれは歴史の捏造です。
但し、中世の二重性について語るには歴史の進化を理解することが前提となります。古代から中世へ、そして中世から現代へと進化する歴史を認識することによって中世の二重性が明らかになるからです。それは歴史を限定的に、近視眼的に検証することを防ぎます。
中世の二重性を清算したものが現代化革命でした。革命は人治の廃止と法治の導入を果し、専制主義を完膚なきまでに廃絶した。革命家たちは徳川将軍や全国の封建領主を政治の場から追放し、そして憲法を造り、国家の支配者としました。法治国、日本の誕生でした。
実際、法は不変です。法は自己保身や責任転嫁から人々を苦しめたりしません。法は国民によって修正される以外、変わりません。そして法は血縁、縁故、地位、権力、年齢、性差などによって国民を差別しない、誰に対しても等しく接します。ですから政治家も国民も法を信頼し、法に従い、秩序を形成できます。
法は国民の人権を完全な形で国民に約束します、人権は中世の領主権や武士権や農民権が一本化され、そして高度化され、基本的人権へと転じたものです。さらに法は職業、居住、結社、言論、表現などの人々の自由を保障します。
歴史は一段ずつ、階段を上っていきます。古代から中世へ、そして中世から現代へと段
階を踏んで進んできました。ここに至るまでにはたくさんの犠牲と苦しみや悲しみがあった、そしてそれを乗り越えて人類はようやく史上、最高の国家体制を手に入れたのです。
これから後は実行あるのみです。人間たちが法の精神を尊重し、民主体制を現実社会において精確に実現するかどうかです。今は、その入り口に差し掛かったばかりです。日本の中世化革命が400年を費やしたように現代化革命が真に完了するまでこれから数世紀を要するかもしれません。
歴史事実は一時の現象として矮小化して検証されるのではなく、歴史の大きな流れの中でそして古代の本質、中世の本質、現代の本質を確認しつつ観察されるべきです。研究者の方々は江戸時代の封建領主の悪行を封建領主個人や村落や時代背景だけに求めて、検証を終えるのではなく、しかし人治という政治形態にまで深めて考察すべきです。
そうであれば明治維新の核心が鮮明に浮き上がります。つまり明治維新は過去2000年間、継続した人治の体制が廃止され、そして法治が確立された画期的な事件であったということが明確に理解されるのです。明治維新は単なる英雄、豪傑の活躍で済むお話ではありません。
さらにそうであれば明治維新は世界史の中においても精確に把握されます。何故、アジアの中で日本だけが現代化革命に成功したのか。何故、明治人は憲法や議会の意義を速やかに理解し、選挙を実施できたのか。それは日本人が強靭な精神をすでに身につけていたからです。それは他者を認める力、法を順守する力、そして結束する力です。その点、日本が中世を通過したということは決定的なことでした。